生誕100年記念 吉原治良展


実はあまり興味なくて、気乗り薄で竹橋の近代美術館まで行く。「具体」の絵を最高と思った事ないし、1年以上前だけど「痕跡」と題した企画展を同会場で見たときも、具体および九州派の作品群は全然印象薄かった記憶がある。なので今日はどっちかっていうと常設鑑賞を主な目的とする。年に数回は、竹橋の常設ゆっくり観たくなるんで。


まあ、でもこの予想は良いほうに裏切られた。吉原治良良かった。


一室目に、1920年代の個展出品作が並ぶ。これがわりと絵として面白れーなーいいなーと思わせるもので、やっぱすごい絵が上手い人なんだなと思う。その後もフォルムの面白さと質感の使い分けに対する飽くなき探求って感じで、具象〜抽象に行きつもどりつ試みが続く。でも戦前の様々な作品群のどれにも共通するのが、画面全体にしっかり絵の具が載っていて、確かで豊かで複雑な空間をもつ画面になっていることで、たとえば単純な白の色面の広がりにも、考え、逡巡と試行が繰り返されたのであろう時間の堆積が封じ込まれてる。いわば「絵画意識の高さ」みたいなのがどの作品にも漂っていて、全体に凛とした雰囲気があり、静かに感動させられる。


で、あとは世の御時世が戦争へと向かい、絵描きの絵の内容にまで影を落とし始めると、戦時下の絵画制作という事について、改めて考えさせられる。以前、藤田のアッツ島玉砕が良いのか悪いのか?なんて話題がどこかであったが、今回、吉原の戦時下における(戦争画ではないが時勢に沿ったかたちでの)作品群をみて、解説中の「菊という国粋的テーマを用いながら、その形態の面白さをクローズアップして、ユーモアにまで昇華させる、この時代において可能な最大限の自己表現を行った」ことは、ともかく、圧倒的に(戦前と較べて)手数が少ないまま仕上げられている事が判り、それが絵の豊かさを激しく損なわせている事に驚く。


これは常設に掛かっている「戦争画」も同様で、とにかく戦時下に描かれた絵は、その多くが手数が少なく、早めに必要最低限の「やる事」だけやってフィニッシュされている感じで、結果的に画面が貧相な事が特徴だと思った。やっぱ結構はっきりした「目的」があって描かれるものだからでしょうか?あるいはもう、物理的に制作時間が無いのだろうか?戦争画は、いわゆる上手い人(たとえば小磯良平とか:今回は展示されてませんが)のヤツは、ほんとう美術予備校の参考作品にすれば良いと思うくらい上手いって感じなのだが、実はもしかすると限られた時間で技術を駆使して描かれてるって事であるならば、まさに受験用の絵と相性が良いのかもしれない。


(アッツ島の絵については、僕はこないだの藤田展を観てないので、あの絵を観たのは確かどこかの会場で少なくとも1年以上前だけど、やっぱりそんな時間掛けてない感じがある。すごい混沌表現で、よくあれで完成としたなーという驚きはあるけど…。関係ないけど今回常設に大岩オスカール幸男の大作が一枚掛かってますが、この人の、大体似たような彩度のべたっとした絵の具を使って、へなへなとしたタッチの描き方で展開させる不思議な世界って、藤田のアッツ島のグシャグシャを、そのまま色調補正したように見えなくも無い…って俺だけ?!)


ある機能主義的目的をもって描かれた絵が共通してもつクレバーだけど薄っぺらい感じ。。


・・・でもこれ身につまされる。別に戦争じゃなくたって、一枚の絵の前で粘るというのはしんどい事だ。もう大体で完了として、それを生涯繰り返している人だって沢山いるだろう。まあその結果が本人も周囲も「良いね!」で終ってるなら、まったく問題ないのでしょうけど。。俺もなー怠惰な性格だから超自重しないといけないのだけど・…と書きつつ、後ろの制作中の絵をちら見してますが。。

まあ。あと急いで付け加えますが、吉原の戦時下の絵が、さすがに戦争画並にひどいというわけでは決して無い事は強調しておきます。


で、戦後の妖しい幻想を経て(この妖しさ・不気味さは作家自身が叙情性に寄り添う事に抗えず、自己を慰撫しているかのようにも見える。でも自己満足的な要素はゼロ。ここでも絵画的意識を研ぎ澄まし高品質であろうとする姿勢が、もう消し去りようも無いくらい溢れている。) 遂にアンフォルメル〜具体の時代へ。「具体」というグループは吉原の死とほぼ同時に解散するが、これは推測にすぎないけど、やはり具体というのは、その理念・理論に拠って結集した人々なのだろうけれど、結局作品を高い、豊かなもの足らしめるのは、さっきから何度も書いてる「絵画意識」でしかないではないか?だから、いくら絵の具の物質性を最大限に発揮させようとも、それを絵画にしてるのは、画家の技術でしかなく、画家としての技術が低ければ具体の理論でも何の理論でも、絵はできないのでは無いか?と思った。


だから「具体」を名乗れたのは、結局吉原しかいなかったのかもしれない。白髪一雄のやってる事と、吉原とは、全く共通性はない気がする。(でも白髪の絵もいいんだよな。僕前から好きなんだけど自分で不思議。なんででしょうね?)


しかし、最後まで観てても、あの有名な「丸」になっても、ほんとうに「いいかたち」への執念がすごい人だ。あとは偶然できた飛沫やなんかに、もう一層絵の具をかぶせて、もう一回画面を安定させたりを繰り返したりとか、ほんとうやってる事が古典的な絵画制作であることに、改めて感動。「丸」の大作が並ぶ最終室の部屋は、まじで美しいです。