乃木坂の新美術館にて。野口里佳。「水をつかむ」のシリーズを観るのは二回目だが、意味とか物語的な絡まりから絶妙に距離をおいた感じのイメージのあり方はいいなあと思った。ほかにもフジヤマと、ラクダのシリーズがとても素晴らしかった。ことに、ラクダが良かった。フレームに納まっている景色の中での、(かなり遠くにいる)ラクダの立ち居地(距離感)がとても好ましく、かつ、そのラクダの身体に布が被せられていて、布がラクダの胴体の丸みをあらわして膨らんだ形状が、フレーム内の世界の一部である「その場所」に、確かにある事が、あまりにも好ましく思えて見飽きることが無かった。海中を撮ったシリーズや太陽を撮ったシリーズよりも、砂漠とか山の方が良いように思えた。
松本陽子。今更だが自分でも驚くほど、僕は松本陽子作品から影響を受けていると思った。というか、こういう絵肌が好きで、僕にとって絵画というのは要するにこういう事であれば良いのだとすら思える部分もある。と書くと、かなり好きって事になると思うが、まあそうかもしれない。松本陽子の作品は抽象絵画とは言えないように思う。少なくともアメリカ抽象表現主義美術以降の仕事という感じはしない。イメージがオールオーバーに広がっているが、基本は明暗によるモデリングと線描による仕事だと思う。ピンクのシリーズでは、描く事と拭き取る事との交互の繰り返しの中で偶然性を有効利用しつつ最終的に画面を定着させるので、完成作品にはある流動的な流れの一断面という印象もあるが、しかしあのような偶然性とは、作り手の手の内で充分に回収可能な偶然に過ぎないので、その意味では実質的に、最初から最後まであのように描かれた絵画なのだと思う。もちろんそれが悪いという意味ではない。そういう描かれ方の絵画としてすごく良いのだし、その技術力が圧倒的に上手いという事だと思う。殊に近作やドローイングを見ると顕著だが、ああいう、ルーベンス〜ドーミエ〜ロートレックへと連なっていくような、手首の力加減が絶妙な鋭くも艶かしい強弱を含んだ線というのは、じつは線としては、ほとんど様式的なもので、絵画を纏め上げる技術の産物なのだと思う。ザックリとつけたトーンの濃淡と、それに馴染むような挿し色と、程よく画面を活気付ける躍動的な線描。そういう要素の組み合わせで出来た「すごく上手い絵」だ。こう書くと実にネガティブな印象になるけど、でもそれを目の前に観ると、うわーなんて見事なんだと思ってしまう。これはこれで、僕はとても観ていて楽しい。
結局、絵というのも音楽の演奏に近いところがあって、その曲や解釈に理屈では違和感を感じたとしても、実際に演奏者の演奏を耳にしたら有無を言わさず納得させられてしまうということはある。それは演奏者の演奏技術に驚いてるだけとも言えるが、しかし演奏技術と音楽を切り離すことはできない。結局のところ、良い音楽とは良い演奏の事ではないのか?というのも一方の真実としてある。もっと極端に言えば、大変凡庸な演奏だとしても、その技術が「信頼できる」「過去を踏まえている」と思えるようなものであれば、それは聴くに値するものだ、という判断もあるのだ。…この話が前述に関して何を言いたいのか、あまりよくわからなくなったが…というかやや乱雑な話だが。。
あと、近作の緑色のシリーズを観ると、緑色って本当に難しい色だなと思わされる。ピンクのシリーズと較べると、緑色のシリーズはどれもものすごい悪戦苦闘している感じで、何をやっても画面上の事物がイメージへと変貌してくれず、緑の絵の具は、まさに緑の絵の具のままで、無残なほど生々しく画面にへばりついている。描画の線も、最初からとっつけたようにしか筆跡として残らず、重ねれば重ねるほど、画面をまとめようとする気持ちの方が前にせり出して来てしまうかのようにさえ見えなくもない。とにかくピンクでやっていた事とは根本的に違う取り組みで作られており、かつ、今も苦戦中なのではないかと想像させられた。正直、画面の下部に侵入してくる白色とかかなり危ういというか、全体的にギリギリの感じで、あと一歩崩れたら全然駄目な絵になってしまいそうなギリギリのところで踏みとどまっているような感じもある。しかしそこが却って、観ていて良いと思わされるところもある。というか緑のシリーズこそ、見るべき作品だと思える。
そのあと八重洲ブックセンターに言って、そのあとブリジストン美術館にも行く。所蔵品を使った展覧会。藤島武二の上手さに改めて驚く。