山田正亮を観て


方法が完璧に確立しているような、確定的な部分と揺らぎを含んだ不安定な部分とのバランスも、フレーム内において絶妙な案配で配置されていて、一画面上で絵画である事の素晴らしい拮抗と干渉が展開している。自信と安定感に満ちた、洗練されたスタイリッシュな印象の作品である。鮮やかな一挙性といくら時間を掛けて観ても解決に至れない混沌が同時に生成していて、画面の様子が複雑で愉悦に溢れていて、観終わるのが難しい。しかしかなりシステマティックに作られたものではないだろうかという感じもしなくもない。技術に裏打ちされた安定感がかなり強いため、全ての絵の具が見事に制御されて、絵の具という物質の有様がそのまま、完全に意識の制御下にある手の操作を証明するアリバイとして機能してるような感じもある。あらかじめ区切られたグリッドの内部を埋めるように動き、所々で境界線を侵犯し、隣り合った領域と混じり合い、結合し、大きく移動し、また留まる。といった出来事すべてが、想定どおりの見事な演出で、完全な事後の出来事として再現されている感じで、たとえば素早い筆致で引かれたブラッシュストロークの輪郭だけを丁寧に掘り起こしていくような、あるいは反対にその周囲からじっくり時間をかけて細密筆で攻めていくような、そういう安定した作業がところどころに介在しているようにも思われる。


などと書いているのは、書きながら半ば無理に考えているからで、もう一度カタログ図版の当該作品を観なおすと、うわ、やっぱりこれはすごい、すばらしい、という気持ちが一挙によみがえってくる。僕の考えている事は、作品に比してあまりにも脆弱である。


ところで、描いた絵を人に観てもらってるときに、よく「こういうのって、描くのにどれくらい時間かかるんですか?」という質問をされる事がある。これが音楽や小説や映画なら、それが作られた時間と、それが受け入れられる時間というのは、ある程度併走する部分があるので、だからあまりそういう質問が来ることは少ないように思う。録音とか複製とか、そういう技術の介在によるずれはあっても、かつて作者がそのように演奏したり作業したりした時間と同等ないしそれの縮小版としての時間経過を、受け取る側は感受するから、逆算して、作り手も私とほぼ同じ時間をすごしているのだろう、と予測できるのかもしれない(もちろん現実には、その予想をはるかに超えた時間の量と質があるだろうが。)


しかし絵だけはそこが断絶していて、描かれたのであろうことはわかるけど、それをリアルに実感できない。というか、描かれた筆触をみて、それが実際に描かれた行為と所要時間しか思い浮かべられなかったりする。それだと、絵を観ることはあまり面白くない。そこに仕掛けられてる時間のマジックというのか、時間の圧縮というのか…そういう根本的なカラクリを意識していると、絵は面白い。今ここにこうして展開しているひとつひとつが、結構時間をかけて作られていると同時に、それが一瞬で与えられるという事のカラクリ。時間を含んでいる、というよりは、時間を揺るがしているようなスリル。


などという事を思い浮かべた。