「マティスとボナール」川村記念美術館


京成上野から京成佐倉まで74分。運賃700円。京成佐倉からは無料バスで30分。上野までの道のりや電車の待ち時間やら何やかや併せて片道、確実に2時間とか3時間以上はかかる。…遠い遠い千葉県の佐倉である。でも5/25の会期終了日までは、何とかこの道のりを、根性で何往復かしないとやはり駄目なのじゃないかと思わされる。それくらいすごい展示であった。


第一室にあるボナールの緑色の海が視界に入ってきた瞬間から、これはエライ事だと思う。その後、次のエリアへ移り、ちらっと一瞥したときの、だだっぴろい空間を囲む壁に並んで掛かっているいくつかの作品が見えただけで、うわーこれはもはや今日中には帰れないのではあるまいか?と思うほどすごい。まじで一室クリアするだけで相当なパワーがいる。観て、行きつ戻りつして、また観て、の繰り返しである。ひたすら観るしかない。観てるもののものすごさがもの凄すぎて訳がわからなくなってくるところとか、一昨年の大竹伸朗と同等の疲れ方かもしれない。点数は大竹伸朗展の何十分の一に過ぎないのだけど。


マティス作品は、一点を観るのにすごく時間が掛かる。そして、マティスを観る前と観た後では、自分の感受機能が大きく変わってしまっている事に気付く。マティスの絵が感動を生み出すのではなくて、マティスの絵の表面に最初から備わっているものをちゃんと受け取る事が喜びなのだ。そこにはまってしまうと、マティスの作品から受ける喜びは終わりがないかのようで、本当にいつまでも絵の前に居る事になる。喜び?しかしあの感じを喜びという言葉であらわして良いものだろうか?それはほとんど驚きというか、知覚の領域で普段ほとんど使わない部分を死ぬほど使う事の快感に近く、ある一定量以上のすごさがわーっと入ってくると、まるで子供のようにうわー!まじやめて!それやばいやばい!ギブギブ!!とか言って思わず素に戻ってしまうくらいの恐怖感すら含んでいる。


あまりにも長時間、じっと観続けてしまったためにかえってわからなくなってしまったのだけど、マティスのタブローのキャンバスって、あれは普通のキャンバスなのだろうか?とにかく絵の具がのってない地肌のしろい部分を凝視してると、それが普通のキャンバスなのかどうかが、なんだか疑わしく思えてくるのだ。間違いないのは、かなり麻地の目が細かいヤツであるという事。下地材が(現代の日本の画材屋で多く市販されてるヤツより)やや光沢のない質素な感じに見えるという事。…とはいえ、マティスの作品ではいわゆる「純粋なキャンバス地肌」は存在しないに等しい。ほんのかすかにでも、かならず木炭か鉛筆か、あるいはかすかな汚れが一層のっている。また同様に、絵の具がのっている部分でも「のりっぱなし」の場所というのは存在しないに等しい。絶対に一層、削り落とし、というか、ほんのかすかな「調子のワン・ダウン」が介在するように思う。マティスの作品で、キャンバス地の凹凸の「凸」の突端にまで絵の具がのってる部分というのは、予想を遥かにこえて少ない。というか、マティスは異様なまでにうす塗りの画家で、たぶんボナールの作品一点で使用される絵の具の総量だけで、マティスなら数点が成立してしまうのではないだろうか?(これって、ものすごく馬鹿馬鹿しい比較だけど。)


マティスの作品一点それ自体は、そのまま絵画の大きなテーマのひとつといっても良いくらいの力をもっていて、実際その作品一点の下に、そこに強くインスパイアされた世界中の沢山の画家たちの作品が、マティスの作品一点に拮抗するために、何千枚も何万枚もぶら下がっているかのようだ。。しかしマティスの作品一点とは、マティスにとっては、自分の仕事のラインナップのひとつでしかない。隣にある別の作品では、驚くべきことに、またまったく違ったアプローチの、まったく違ったテーマが問題とされているのであり、その作品の下にもやはり、また違った志向の、世界中の沢山の画家たちの作品が、命がけで何千枚も何万枚もぶら下がっているのである…。そして前述した何千枚と、後述した何千枚を、マージングする事など絶対に不可能である。それぞれ抱えている諸問題をマティスの名の下に再統合しようなどという事は絶対できないのである。


ブラッサイが撮影したモデルを描くマティスの写真は結構笑える。「ちょっと、それ近いでしょ!」って言いたくなるほど、マティスとモデルは近い。コント並みに近い。…しかし、その隣にある、ロバート・キャパが撮った教会の壁画を描くマティスの写真を観ると、もうぐうの音もでないほどうちのめされる。「ちょっと、それ遠いでしょ!」って言いたくなるほど、遠い。異様に長い竿の先に墨を付けて、マティスが正面の壁に図像を描いている写真である。画面とマティスとの距離はおそらく2メートル以上ある。そのあいだをすーっと細い竿がわたっている。…モデルとの近さと、作品との遠さ。…なぜだか得たいの知れぬ感極まったような気持ちがこみ上げてくる。


マティスというのはやっぱり20世紀最重要な画家だというのは、実際に作品を観ているとさすがに実感としてわかる。素材というものに対する拘泥の無さ。一度上手くいった技法(手法)に対する未練の無さ。行為に対する濁りや下心の無さ。絵を描いてるくせに絵を描く事だけで手に出来る筈の固有な自慰的な快楽から遠く離れて、そういう枠組みだけがもたらしてくれる愉悦など平然と無視して、ほとんど阿呆寸前のニュートラルさで、そういった諸々の態度が、色も欲も金も装飾もそれ以外の全ての夾雑も、何もかもすべてをいっしょくたにして、嫌悪でもなく迎合でもなく、あくまでも画題として、自分の眼でかっと見て、そして描いて、何年もかけてしつこくずるずると引きずって、そのまま行っていつしかほんとうにぎりぎりの、一個の差異だけの世界にまで到達していくのだという感触が、驚くべきリアリティをもって、体で感じられる。本当にこのマティスという画家は「20世紀の西洋絵画の巨匠」なのである。


鉛筆を使わせれば、鉛筆でひかれた線のもっとも美しいところだけが結晶したような素描になるし、その隣には、鉛筆とか何とかはじめからそんなことがなかったかのように、今度は野太いコンテの線が、これまたコンテの最強に伸びやかで粘りのある美しいストロークとしてあらわれている。墨を使えば墨がのたくりうめき、跳ね、留まり、ときにホワイトが覆いかぶさるように併走し、その快楽をどこまでも享楽しようとしている。…この旅には果てがない。まあここいらでよかろう、という目配せがまるでない。叙情とかそういうのはまったくない。まさに、涙が追いつけない。ある意味、これほど非人間的な話もない。