数日前から江藤淳の「アメリカと私」を久々に再読していた。もう頁の最初からものすごく感動してしまい、このblogにだらだらと感想文を書くつもりだったのだが、そもそも「アメリカと私」を知る事になった大塚英志「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」もついでに引っ張り出してきてこちらも久々に再読したら、なんかこれもやはり凄いモノで、今結構グッタリした気分で、もはや何にも書く気がなくなってしまいました。
まあでも、僕は単純に「アメリカと私」は何度読んでも、まあ凡庸な感想だけど「身につまされる」感じがして好きである。もちろん僕自身は、留学経験があるとかいう訳ではないので、全然勝手な思い込みなんだけど、まず最初に「社会」が、得体の知れない、恐ろしいものとして目の前に現れ、「適者」であれば、人並みの主張や要求が初めて可能であり、主張や要求の内容に正当性があれば、それは受け入れられる。という明快な「ルール」をひとつひとつ、これでもかという位に確かめるように話が進む。【適者生存という過酷なルールをわざわざ生きることでそこに生じる軋轢を介して「社会」の感触を得て、その実在を立証しようとしている】(大塚英志) その回りくどい倒錯した手つきに、とてつもなく感動させられてしまう。あえてそのように生きる事で、初めて感じる事のできる社会の手触りというのが、確かにあるんだというのが確信される。
この話には【この人が、これをしなければならない理由はひとつもないのだから、これは純粋な親切である。】的な表現が何度か出てくる。これは他人から受けた「親切」というものを、自分が負ったひとつの「負債」として計上していくような心理で、このあたりも倒錯的なのだが、僕には痛いほどリアルに感じられる。冒頭、奥さんが病気になった箇所での熾烈としか云いようの無い言葉【病人は不適者であり、不適者であることは「悪」である。「悪」は当然、「善」であるところの適者に敗れなければならない。ところで、自分が、適者であることを証明するのもまた自分以外になく…】このような切迫感は異様であるが、限界値の見えている自分という乗り物を完全に制御下におき、与えられた状況下で最大限速く走ろうとする操縦士のような悲壮感があって、その姿が美しい。(まあでも大塚英志が言うように、病気なのは奥さんなのだが)
【ロックフェラー財団の規約によれば、私は何でもしたいことをしてよいことになっている。しかし、これは実際には、お前にもし能力があるのなら何かしてみればいい。なければ昼寝をしていても文句は言わない、という意味であって、一見自由なようでありながら心理的には負担の大きな要求である】そのような著者の圧迫は、ほぼそのまま、ロックフェラー研究生でもなんでもない、只の自分自身にも、鋭く届く。
この後、江藤淳はアメリカで「成功」していき物語としては大塚英志言うところの「ビルドゥングス・ロマン」が成立されるのだが、やっぱり僕が何度でも読み返したくなるのは前半部である。まあ単に読み手が弱虫なだけのような気がするが(笑)
しかし久々に読み返してみて、初回(自分の結婚前?)の読後感と大きく違うのは、やはり夫婦というユニットが社会と徹底抗戦する下りのある種のすさまじさであり、この部分に関する読後の印象は、嫌なものではないが、重い。(勿論、大変感動的なのだが…)大塚英志の本もこのあたりをものすごく鋭く言及しており、一層重い。なんだか凹む…。(…しかたがないので、妻に(今日テレビに出てた竹中直人の可愛い風の声色で)「ぼくコッカースパニエルのダーキーだよ!かわいがってね!!飼ってね!」と、くどい程、繰り返して話しかけてみて、超・ウザがられた。あーあ)