土から生まれるもの|コレクションがむすぶ生命と大地 -東京オペラシティ-


展示されている作品群の中から、小川待子インスタレーションとか、崔恩景や尹亨根の絵画に癒される。崔恩景の絵は昔からすごい好き。李禹煥も良い。


しかし癒されるって…。鑑賞者としてなんというだらしない姿勢のことばしょう!?と思うが、その時はそのような感覚でいたのだから仕方が無い。でもちょっとみっともない。


作り手と受け手がまったくそっぽを向いたままの場所の真ん中にいきなり作品をどーんと持ってきても、それだけでは美術は、生まれないのかもしれない。そこが美術館であれば、とかどこそこであれば、とかの場所なども関係ない。すごく単純に言うと、やはり人間間の共犯関係のようなものがないと駄目なのかもしれない。


であるから僕のように、只会場へ行って、ぽーっと好きな作品を観て「癒された」とか言って帰ってくるのは、美術鑑賞としては、あんまり宜しくないのかもしれない。


何も「もっと積極的に作家や関係者とコミュニケーションしたほうが良い」とか「積極的に美術を仕掛ける側にボランティア参加する」とか「積極的に美術に関する歴史やなんかの文献で感覚の裏付け補強に勤しむ」とか、そういう事を推奨したい訳ではない。・・・というか、これらの事って、実はあんまり美術と関係ないのかもしれない。過去の歴史を参照したいっていう意欲だけはすごい重要だけど。


そうではなく、やはり誰かが何か、やってる事とかやられた事とかを、全身の感覚で感じようとする時の、心構えを最大限に敏感にしておく事!っていう感じなのかなあと思う。少なくとも描き手は自分の作品を「これ最高」と思ってる訳で、それを不特定多数に提示するっていうのは、すごいサービスだし「愛」の行為なんだし(?)。


だから、作家は基本的に「愛」の人だと信じた上で作品に向き合うとき、前述の僕みたいに、ただ「癒された」っていうのは、作品を単に癒しツールに矮小化してるだけなのかもしれない。とはいえ、いずれにせよ矮小化しなくては、人は作品を鑑賞できないのだから、それは仕方が無いことなのだけれど、それでも僕みたいに「癒された」なんていうのはあまりにもタカを括り過ぎの態度であって、ちょっと芸が無さ過ぎだしシャレがわからな過ぎだし、そういうんじゃ人生は豊かにならないのかなあと思う。


まあ、単に人との出会いもそうで、初対面での社交辞令的挨拶の後、如何なる面白い時間と空間が展開するか?については、両者の相互補完とか配慮とか防御心とか、そういうのが干渉しあって何かが出来ていくという、そんな諸々の共犯行為が決めるのであるから、そういう部分は人-人も、人-美術もある程度似ている。