画家とモデル


「20世紀美術」という本の中で宇佐美圭司が、こんな事を言っている。

「背中」のレリーフ状の彫刻と、ブラッサイが撮ったマチスがモデルをスケッチしている写真をいっしょに見て、マチスがかなりひどい近視眼であったことを確信した。彼の近視眼と絵の関係について論じた文献がはたしてあるかどうかを私は知らないが、これはかなり重要な事柄であろうと思う。

ブラッサイの写真では、わずか一畳くらいの敷茣蓙のなかにポーズするモデルとスケッチするマチスが一緒にいる。これはたぶん上半身を描いているところだろうが、それにしてもモデルとの距離が異常に近い。顔や胸が一メートルくらいの所にあり、足が見えないような位置でデッサンしている。もちろん正常な視覚のものなら、こんな描き方に耐えられないだろうし、たとえ近視眼であっても適当な矯正をメガネでほどこせば、もう少し距離をおいてモデルに対するのが普通だ、と私は自分の経験に照らして思う。普通でないことをわざとしているのか、マチスにはそれが描きやすかったのかのどちらかであろう。あるいはその両方であったのかもしれない。「モデルのにおいを嗅げるように描く」というマチスの言葉を読んだ記憶があるが、ここではそれが心がまえではなくリアリズムである。(20世紀美術 (岩波新書))


上記の言葉とは直接関係ないが、自分が生まれてはじめて人体を…というか、はじめて裸婦を描いたとき、その緊張たるやすさまじいものがあったと思う。僕は今でもそのときのモデルの顔とか、その裸身とか、そのとき描いた絵の細部の事を覚えている。というか、いつまでも忘れられない感じなのだ。…ひどくやつれたおばさんであったが、その肉が垂れ下がった背中の感じを今でも忘れられない。当時、高校1年生であったが、あの、皆が集まってバスローブ一枚を纏ったモデルを取り囲んでいて、ストーブが必要以上に熱く部屋を暖めていて、アラームが鳴ってポーズが始まる瞬間というのは、すさまじい緊張を感じた。なんという残酷な話だろうとも思ったし…


その後、大方の美術学生と同様、いつしかヌードモデルをモティーフに描くなどという事には、全く慣れてしまうのだが、しかし、その事に常に、やや後ろめたいような、自分をだらしなく思うような気持ちも感じていたように思う。こんなでいいのか!みたいな。。


坂口安吾が、恋人の肉体だけを特別に過剰に妄想も込みで思い込んで、肉体なんてどこにでもあるのだけれど、あの人のそれだけは「とっておきたい」と思うであるとか、エゴン・シーレが「大人たちはなぜ、あの性的な衝動が当初持っていた、強い痛みのような感覚を忘れてしまうのか?」と言ってたり(超うろおぼえ)…そういうのを考えつつ、やはり、そういうのは、簡単に忘れてしまうのではなくて、そのようにちゃんと特権化しないと駄目なんじゃないだろうか?などと、若かりし頃は思っていた。


「性的愉悦だとかに溺れる」なんていうのは、まあ誰でも経験するのだろうが、そういうのは上記とは全く別の快楽に溺れているのであって、それはどちらかというと「制度」だとか「人間界の約束ごと」が与えてくれる何かに、溺れているようなものに近いのかもしれない。


…まあ、それはともかく多分、今、仮に自分も実際にモデルにかぶりついて、モデルの体からたちのぼる匂いを感じ、その吸ったり吐いたりする息遣いの音が聞こえてくるくらいの距離で、そのときの感覚を感じつつ絵を描いたとしても、絶対、マティスの作品のようにはならない。そのときの感覚と、絵が絵という物質から感じさせることのできる官能性は、これはまったく別なのである。


よくモデルとの「実際の関係」を口にする写真家だとかも居るが、それも写真の効果とはまるで無関係な筈である。まあ当たり前だが。でもやはり、そのように足掻くこと自体は大事な事だと思う。(でも、よくわからんが、実際に「行為」に及んでしまったら、そのあとその相手を視覚的な対象にする場合、かえって逆効果では?とも思うが…まあそれは個人差あるのか。マティスも、単なる好色な側面もあったのだろうが、マティスのすごさは好色がそのまま滑らかに絵画の表面と繋がっているような気配さえ感じさせるところかもしれないが。。)