熊谷守一美術館30周年展


図書館に本を返す。日差しが強く暑い。誕生日が近づき、間もなく44歳となる。北千住を歩いていたら、葬儀場の前はいつものように黒く枠取られた鞄に誰かの名前が書いてある。ああ、死にましたか。毎日毎日死んでいきます。葬式を見ると最近はいつも、自分が死ぬ前の想像をつい思い浮かべる。死ぬまでの、肉体が抵抗するときの苦痛とご臨終の瞬間。俎板の上でワラサが一尾、これから捌かれて刺身にされるときの写真を見て、このワラサの顔を見て、こんな風な顔になるまでは苦しむのだろうけど、死んだらこんなに、死んだという顔になるかと思う。魚は生きてるときから死んだ顔にも見えるが、死んだ顔がキレイだからいい。最期は魚の顔になりたい。


有楽町線の要町に移動。熊谷守一美術館の30周年展を観る。予想していたよりもはるかに素晴らしく、ほとんど胸があつくなるような思い。如何にも熊谷守一っていうのがそういう感じ、みたいなイメージで思い浮かべていたのに、実際に観るとやっぱり全然すごかった、ということ。とくに鉛筆素描とか墨絵の冴え渡り方。風景画の素晴らしさ。人物や動物をモチーフにしたときの、直線的な線の素晴らしく効果的な使い方、水のとらえ方。


人物画はどれもほぼ顔の輪郭だけで目も花も口も無く、自画像とか天女だと描いてあるけど、裸婦モデルとか、母子像とかには無い。この顔無しが最強に素晴らしいとしか思えない。個人的には1965年「母子像」は最強に素晴らしい。他にも仏画の下絵とか、水浴図とか、本物のマティスを観たような、マティス作品と同質の問題がいきなり目の前に出現するかのような情況に、ちょっと動揺するほどだ。ちなみにネコの絵はどれも目と鼻と口がある。いや、口は無い。ネコには元々口が無いから…というと変だが、ネコの口は描く必要がなく、目もとじているので顔としてはあのネコの顔である。ネコの顔を見ていると、同じように人間の顔も描けたらいいのになと思う。ネコの顔みたいな人間というのはおそらくいないだろう。(ネコに似ているという人、というレベルじゃダメで、ほぼネコ、じゃなければダメ。熊谷守一が「こいつの顔は目も鼻も描きたい」と思うような顔。)


風景画は、僕は一階に展示されていた、貫禄のある熊谷様式確立という感じのものよりも、会場三階に展示されている風景の方が全然好きである。ただ、年代が一階と三階で明確に分かれているわけではなく、ある時代の作品がいいとか、この時期以降はちょっと変わったとか、そういうわかりやすい変遷みたいなものはほぼ感じられない。初期から晩年までほとんどやってることが変わらない。しかし、そのやり方の中に無数の細かい挑戦が織り込まれていて、別にそれを続けることが目的というわけでは全然ないというのも感じられる。とにかく柔軟だし、挑戦的。見ている先が、高いのだ。作品の出来とか自分の損得に頓着していない。三十秒で描いたような鉛筆素描一枚にいたるまですべてそのような営みの結果で、したがってどの作品もほぼ等価の強さをもつと言える。


その風景画を観て、実際にその風景を見ていることを想像してみれば、おそらく実際は遠景までの底なしの空間の抜けと、遠さの感覚、空気、落下、死、透明など、さまざまあるだろうそれらのイメージを、この絵はここまで平面に落とし込んだ。まずその、一枚の絵にしてみました、というユーモラスさ。絵を描くというのは、そもそもそうなのだ。今ではあたりまえ過ぎて誰も気付かないけど、観て、それを絵にしてしまうことの、根本的な滑稽さというものがあると思わされる。それは滑稽なのだが、しかしその乱暴さ、大胆さをまざまざと感じるということでもある。その変換におけるスピードと処理過程のメカニズムだ。ばかばかしいけど、なんか動いてるという不穏さ。きわめて原初的、根本的な駆動機関の作動している音。前景に岩があり、その向こうに岸辺のようなものがあって、その先に海が見えて、さらに向こうに回り込んだ向こう側の岩山が見えていてさっきからその向こう、その向こうと言うが、それらがすべて一様で平坦な絵である。このとき何を感じているのだろうか。その向こう、というものが一番手前にあることで、まるで自分が滑り落ちていくような錯覚を感じているのか、いや、手前を見て、その向こうを見て、さらにその奥を見て、それがここでもなぜかおそらくは別のセオリーで成立してしまうことの不思議さに驚いているのか。


熊谷守一という人は「傾いたような、雨漏りがするような家を好んだ」という話もあったそうだが、これも何となく、ぼやっと想像で、つまり自分がいて、それを取り囲む家という、自分の外枠のような、自分の着る物の延長みたいなものとして考えていたんじゃないかと勝手に考えていた。おそらく清貧とかそういう類のことでは無いと思った。つまり自分がそこに座っていて、傾いたような、雨漏りのするような外枠がある。台所にある野菜なんかを描いた絵もあるし、庭の植物の絵もある。内側も外側もあるが、その傾きや雨漏りのする場所において自他が混ざり合っているというような。


どうも画家というのは(作品を作る人なら皆そうかもしれないが)、一旦あえて内と外をごっちゃにしてしまう人なのではないかと思う。内外でも何でもいいけど、とにかくけじめをつけないところから、生み出してしまうきっかけにするというか、作るというよりはやはり、何かの放置、放棄によって事後的にものをあらわすのではないかと思う。