ボナール(2)

乃木坂の新美術館でボナール展(二度目)。水浴の裸像を集めた部屋(第四室)は、やはり素晴らしい。入ってすぐ右手、1931年の「ボクサー(自画像)」がいきなりあって、黄色の氾濫に思わず怯みそうになる。床に置いた大きな盥のなかで、水差しを傾けている裸婦を対面から見下ろした構図の絵。この水差しから流れ落ちる水が、白濁というか白く輝いているというか、水差しにべったりくついているというか、水差しの内側が溶け出しているというか、なにしろ流れ出す真っ白な色とも形ともつかぬものとして、左上から右下への運動を感じさせて、これがもはや、ほとんど作品内空間すべてが、水差しから流れ落ちるものに吸い込まれていくというか、空間そのものがその水差しの内容物としてずるずると流れ出して行こうとしているのではないか、というような、そのためにあの異様なフォルムの左足一本がギリギリで流れに逆らって全体を支えているのではないか、というような…

…まあそういった、ボナールの作品なのでそういった悪夢のような何かを延々観続けてしまうのは、まあ観ている個人の勝手とはいえ勝手な話なのだが、とにかく観ていると際限無くとんでもないことになってしまう。正面の壁には裸体の女性立像の絵が四点、間隔を空けて並んでいる。この並べ方…。裸体のフォルムがそう感じさせるのかもしれないが、四体の菩薩とか観音像が神殿の前に並んでいるのを観ているようだとも思う。それにしてもこれらの、縦長の絵画の、絵画である事実が文字通り活性しているありさま、絵画の核にあるエンジンの全く無音で静止しているようでいて実は一万回転くらいで回っているような凄まじさは何かと思う。

午後から同会場講堂にて岡﨑乾二郎と松浦寿夫の対談「ボナールの教え」を聴講する。岡﨑乾二郎は常にそうだが、テーマに関して何かちょっと変わった内容や、あまり聞いた事ないような仮説とか面白い話を準備してくるサービス精神豊富さがいつも楽しいのだが、今日は後半少し不満そうというか、あまり話が展開しないねえ、みたいな感じだったが、結局「ボナールはいつまでも観ていられて」「ボナールは絶賛するしかない」ので、ボナール愛をひたすら語るしかなくて、提示したテーマを対話で深めていくのがけっこう難しいだろうと思われたが、それでもこちらとしては充分に面白い二時間であった。以下思い出しのレベルで書くが、勿論正確な講義録ではない。

岡﨑氏による最初の話、後期印象派の最高の成果としてのボナールならびに近代文学の最高の成果としてのボナール。後期印象派の主な取り組みとして「目では見えないところまで問題にする」というのがあって、その一方の解決策としてマティスピカソがいた、それは平面性という概念に拠った解決で、上手くやったと言えばそうも言える。しかしボナールはそうではない。マティスの絵とボナールを較べてみたときに、ボナールの方が圧倒的にすぐれているのは自明であって、ボナールを本気で好きならマティスピカソなどただのポスターじゃないかと言わなければいけない。ちなみに小林秀雄は幸いなことにボナールについて書くことは無かったけれども、本来なら小林秀雄(的な鑑賞眼)が絶対に取り上げるべき画家の代表こそボナールだと言える。でもボナールの嫌なところを強いて言うなら、もしみんながボナールになられたら(ボナール的な仕事ばかりされたら)、それは嫌だ、大きな声で言うと誤解されてしまうから難しいのだけれども、そういうことだ。

「目では見えないところまで問題にする」とは「見えているものと、それを見ている私(の知覚)」までを問題にするという事だ。しかし私がそれを見るとき、それは常にそれ全体ではないし、私もその都度部分を見ることを繰り返すばかりで一度たりとも安定した状態で見ることはできないから、見えているものは見るたびに変容するし、それを見た私も変容する。その変容のくりかえしが、経験になるしかない。ヴァージニア・ウルフプルーストに代表される近代文学は「見えているもの」を記述するときに見えている過程そのものを記述しようとした。見る度に変容して次々と異なるイメージが召還されて、比喩が広がり、それが結局何についての言葉なのかの解決は一向に訪れない。「見えているものと、それを見ている私(の知覚)」までを問題にするという事は、S-V-O(主~動~目)の関係が入れ子になってしまって、それがさらに無限連鎖するようなものである。それで「この私」はバラバラになる。とはいえ文学であれば、それが言葉で書かれている以上、意味の器に支えられながら一直線に読まれるしかない。これが文学(言葉)の限界である。世間ではプルーストを通してボナールを理解できるなどと言うかもしれないが、自分に言わせればプルーストよりもボナールの方がよほど高みに達している。ボナールは果敢に、バラバラになるこの私を問題にし続けた。絵を観ればわかる。通常の意味での視覚・認知の順序の変態化。あらゆる文学がアプローチできない問題に、ボナールだけは手が届いている。この世のすべての近代文学よりボナールがすぐれているというのは、そういうことだ。室生犀星正岡子規も変態だし偉かったけど、ボナールは本物の変態だった。

思わず気の毒になるくらい、マティスは今日の岡﨑乾二郎によって全否定されていた。岡崎氏曰く「マティスを最近嫌いになった」とのこと。まるでイジメのようなマティスへの扱いは何を意味しているか。マティスなんて所詮「解答」とか「解決策」に過ぎない、みたいなことだろうか。印象的だったのは、ボナールは自分を絵に描き入れる、このことをもっと真剣に考えなければいけないのだという話で、自画像画家としてのボナールはそれまでのレオナルドやレンブラントなど自画像をテーマとした過去の画家とは何かが根本的に違うのだといい、ある風景に自分を描き込むとはどういうことなのか、マティスなんかはどうしようもない、せいぜいモデルを描き込んで自分はいなくなってしまうばかりだ、それでいいのか、みたいな、解答とか解決ではない取り組みを続けた比類なきボナールの偉さ、凄さみたいな、制作者としての自分も今後はそういうことをより真剣に考えなければいけない、みたいな話だった。