そろそろ展示物搬入の準備をしつつ


あと数日で搬入して展示するなんていう状況に居るからだと思うが、自分の描いて来た作品群を並列的に見較べて何かを思ったり、あるいは展示されるギャラリーの空間を想像して、どのような按配になるのかを想像してみたり、というような考えが、どうしても出てきてしまう。そうすると一番良くない事になる。絵を並べて、ざっと観て、ある絵のある部分がイマイチと思うと、その絵を加筆したりしようとする。所謂「横の比較」で何かを判断しようとする初歩的なミスである。云うまでも無いがその絵の素性は「タテの比較」で推し量るのが最も正しい。その絵は、昨日と較べてどうだったのか?手を入れる前と後で、どのように変わったのか?その変化は自分にとってどのような意味があるのか?これらを「記憶」を基にして考え、次の一手を進めること。目の前にたまたま展開されている「一覧」の有様に惑わされない事。僕はこの教えをパチンコ屋において学んだではないか。古来より伝わるあの云い伝えを忘れたのだろうか?「災いなるかな。釘の見た目に欺かれし者。彼らは地獄の業火に投げ込まれるだろう」「幸いなるかな。台の素性に敏くある者。天国は彼らのものである」


そもそも絵は場に展示されて初めて効力を発揮するようなモノではない。宗教画とかフレスコ画と違って、貼りキャンバスやチューブ入り絵の具が登場して、印象派の皆さんがアウトドアを志向し始めてから、絵画は常に移動の可能性とともにある。(僕は支持体が紙ですけど)だから、大げさに言えばいつでもどこでも貴方の前にたち現われるのが、近代以降の絵画なのであって、その時点で場にくっついた特別な神々しさとか、そういう田舎のしがらみを覚悟を決めて捨て去って来たヤツなんです絵画は!というつもりで作っている。…というと言い過ぎで、そんな事は普段考えてません・・・っていうか所謂シアトリカルという言葉もあるが、要するにそれって実際の客観的な状態というよりは、むしろ作品を作っている作家のこころの中の問題ではないだろうか?とも思ってみた。この目の前の何かが、僕以外の誰かに、こんな風に作用するかもしれないなあ、と想像した時点で、そこにはシアトリカルな空間のイメージが生まれているのではないか?でも、じゃあそういう事をまったく想像しないで作品を作れるか?と言ったら、それも無理だろうと思うが。作品はどうしても、客を目の前にせざるを得ないから。そのあたりをぎりぎりまで絞り込んで、もはやそういう安定的な、作品と人との安定した関係性を揺るがすような作品というのでも良いのでしょうけど、僕はその辺は、全然そうは思っていない。普通に不特定多数との「出会い」に備えて、最低限のお化粧をしてきちっと帯を締めて、作り笑顔で「いらっしゃいませ」と言うしゃんとした作品を志向している(この比喩わかりにくいか。)


ってか、まあ何を志向しても無駄といえば無駄だ。偉そうな事言ってもしょうがない。駄目なものは駄目なのだし。。しかし、どうあれ作品を「晒す」以上の事しかできない。。というか、晒す。自分に対して晒す。自分へのご褒美として、晒す。だから早く搬入日になってほしい。早く楽になりたいって感じ。そんな事云ってるのは情けないのだろうけど、僕は今、そのだらしない快楽を貪りたくて、あと数日でそれが出来るんで結構わくわくしている。だから搬入日が僕的には盛り上がりのピーク(笑)。…で、実際飾り付けたら、それなりにがっかりして失望して、でもそれなりの満足感が自分の底のほうに残っていれば幸せだが。。


18〜23日の会期中、作家は木〜土だけしか在廊していないという体たらくですが、ここをご覧の皆様におかれましても、もしお近くを通りかかった際は是非お気軽にお立ちより頂き、ご高覧いただければ幸いに存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。