Painting XP


音楽再生環境の時代による推移は誰でも記憶しているだろう。たとえば僕の両親の世代におけるシステムステレオコンポーネントとか、僕の世代のリーズナブルなミニコンポとか、重低音ラジカセとか、MDプレーヤとか、80年代までは基本的に再生環境=システム/ハードウェアというのが成立していた。システム/ハードウェアというのは音楽を聴き、そこに何事かを成立させるための純粋な素材である。その「素材」と、音楽を視聴できて幸せな私の「身体」が組み合わさって「体験」(音楽鑑賞)になる。システムの向上(金銭の投入)は、そのまま「体験」の条件と比例して向上させる事に貢献できたのだ。


でも当時から唯一の例外がSONYウォークマンで、あれは音楽再生環境の歴史上、単なる「素材」である事に甘んじないで、はじめて直接「身体」に揺さぶりをかけてきた。システム/ハードのクオリティよりも、それを感じる貴方の「身体」がどこにあるか、その事の方がよっぽど重要じゃない?というのが、SONYウォークマンが提示したプランなのだ。そして言うまでもなく、まだ僕たちはその強烈な有効性の支配下にある。今をときめくappleの製品も、この新提案を抜本的に崩すものではない。


iPhoneに限らず、今の世の中で話題になるデバイスとかガジェットとかは、基本的に皆すべて「素材」を志向していない。そうではなくて、どちらかというと「身体」を志向している。より正確にいえば「身体」が感じる感覚を変容させて一瞬の幻覚を見させる事を志向している。いわば「疑似身体」というか「身体拡張部位」というか…。要するに、ユーザの貴方に快楽を届ける事をサポートするぜ!というもののように思える。


しかし、どう転んでもそれは「身体」が間違って感じている幻覚でしかない。「モバイルコンピューティング」とか「ユビキタスネットワーク」とか「web2.0」とか「iPhone」とかの良さとは、自分の身体のこれ以上どうすることもできない限界にシステムの方がやさしく寄り添ってくれて、その結果ほんの一瞬でも幻想を見せてくれる事にあるのだと思う。大事なのは、あくまでも自分の身体だ。結構おうちゃくで、幼児的ナルシスト的快楽に根ざした感覚であるとも思える。


iPodはそもそも、iTunes内の管理データをそのまま携帯して移動させる事のおもしろさを狙って登場したのだと思う。つまりそれは携帯音楽プレーヤというよりは携帯データベースである。それは一昔前のグループウェアとかPDAとかで志向していたもので、「母艦」(Host Server)からの離脱と帰還を1シークエンスと考え、離脱時の出来事は、帰還する事で同期されるという、そこに「快感」があった。次いでモバイル・コンピューティングによって実現したリアルタイム&シームレスアクセスにより「快感」はより強化された。如何に「台帳」にアクセスするか?という観点での、その手法の変容から感じられる「快感」を、音楽に乗せかえてやってみたらやっぱり最高に気持ちよかった、という事なのだろうと思う。そのコンセプトさえ受け入れられたら、あとはデータベースに登録される内容は当然、何でも良いのだ。報告書だろうが音楽だろうが日記だろうが、何でも良い。iPhoneの時代以降、アクセスポイントへの認証さえ可能なら、もう何でもさせてあげますよ、という感じになって来つつある。問題は「容器」の方にあって、要するに容器に備わった機密性と完全性と可容性だけが重要で、特に可容性を異様なまでに誇大させる事こそが、人々の間で今もっとも重要な関心事なのである。(ちなみにiPodiPhoneもまだ自分のiTunesと遠隔地からつながる事はできない。…将来、出来るようになるんだろうか?手の中のiPodが自宅のPCと常に同期するみたいな…いやもはや、iPodが自宅のディスクスペースを常に直接参照するのか。アドレス帳も動画もアプリも全部利用可能で…そうなるともう自宅にあるのはディスクだけで、インターフェイスは全部iPhoneって事か。)


しかし、ここではっきりとさせなければならない事があって、なぜかというとそれは僕が「美術(絵画)を制作する」人間だからなのだけど、美術(絵画)を制作する以上、それを作るのはここに存在する自分の「身体」でしかないのだ、という事だけは忘れるわけにはいかず、絵画を制作しながら生活するという事は、その事の現実感を常にリアルなものとして感じながら生活すると言うことで、そうなると結局「モバイルコンピューティング」とか「ユビキタスネットワーク」とか「web2.0」とか「iPhone」とか、そういうモノの面白みとか便利さとかを、自分からわざわざ拒否しているような感性に近いのだろうとも思う。ウォークマンiPhoneが働きかけてるのは「身体」に対してでしかなく、「身体」に働きかけてる以上、そこに生成してるのは「体験」ではなく「麻薬のトリップ作用」のようなものでしかない、という事だ。


iPodiPhoneも基本的にはトリップ体験生成機器である。それは本来「配置場所の変更」でしかないのだ。常に不確定な要素に翻弄されざるを得ない「身体」の限界を素晴らしく拡大してくれるのだけど、与えられる情報の品質はそこで感じた身体の快感との相乗作用にまみれてしまう。いや、それの何が悪いの?配置場所を変更こそが、最大の発見じゃないの?それだけで、こんなに楽しい事がいっぱい起きるのなら最高ではないか?それで何が悪いの?と言われたら、僕もその通り!と答える。いやまったくその通りなのだ。だからiPhoneは今一番楽しい。


でも僕は「美術(絵画)を制作する」人間なので、iPodiPhoneよりは、たとえばLiquidRoomの超巨大な音が風圧となって押し寄せてくるようなサウンド・システムの方が「音楽体験」の道具としては全然有効だと思ってるのであった。っていうか、iPhoneの楽しさは絵画の楽しさとまるきり別モノだが、たとえばLiquidRoomサウンド・システムのすごさというのは、iPodiPhoneよりは、もしかしたら【美術(絵画)】の楽しさに相通じるものがある、と思うのだ。(…しかし、自分で書いてとんでもなくばかなエントリーだと我ながら呆れますが…ここで書いたものは、いつもながら文章がまずく論旨も雑で乱暴だし「そんなの比較しても意味ないでしょ?絵画制作と音楽鑑賞と一緒くたにして、何が言いたいの??と、ほとんどの人に感じさせてしまうのかもしれないが、でも僕の中ではほとんど確信に近いので書いてみた。


ちなみに僕が持ってるのはiPhoneじゃなくてtouchである。つまり「GPS機能」を搭載してないのだ。僕はGPSを使ったサービスを利用できない。利用しない。…その事についてうだうだ考えていたら、いつの間にかこんな文章ができてしまった。