「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない 中西夏之」 林道郎


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ものすごい面白かった。まあやや丁寧さを欠いたまま一気に読んだので、記憶から零れ落ちてる箇所も少なくないかもしれない。とりあえずここに1stインプレッションを書きとめておいて、また反芻の機会ももちたい。


まずすべてが、信頼に値しない事が前提である。仮定された、足場としての水平面に対して、重力に抗いつつ、垂直面としての絵画がたちあがり、空に浮かんでいる。「絵画場」。全てが危ういバランスの元でかろうじて生成されている。吊り下げられているもの。引力。力と力との関係。あいだに生じるもの。「絵画場」。薄い膜として成立するもの。触れる事ではじめて成立するもの。


…たとえば中西氏自身の、舞踏に対する批判的なことば(…舞踏が大地をあまりに楽天的に身体の自立の土台として信頼している…)が紹介されているのだが、有名な舞踏家の言葉で「人間とは命がけで突っ立った死体である」とかいう感じの言葉があったように記憶する(超・曖昧な記憶で細部は間違ってるかもしれない)。僕はわりとこの言葉自体が好きなのだが、言われてみれば確かにここには疑いの余地もない大地の前提が、ある種のロマンティシズムと共にあるように思わなくも無い。もし突っ立つべき大地の安定すら信用できないのであれば、通常考え得る舞踏のイメージが成立しないのでは?とも思うが、足場としての水平面および画面としての垂直面すら仮構のものとする中西夏之に拠ってそのような指摘が為されると、途端に在るべき約束事のずっと手前の領域で恐ろしく剥き身の舞踏が目の前に現れるかのようですらある。


「アクト(行為)」と「ジェスト(身振り)」との違い。目的に向かって意味を持たされた能動的な「アクト」とそうではない「ジェスト」。ここでの「アクト」は、舞踏でもあり、古来の西洋絵画論に一貫して流れ続ける、対象を見て所有・把握したいという男性的志向が潜在しており、「ジェスト(身振り)」で絵を描くことがそれに抗う事になり得ると…(しかし、ここであまりにも単純にジェスト=正!と考えるのはつまらない。どう転んでも、絵画だって「アクト」なのだ。)


…なんだか、ものすごく下手糞な要約だかなんだか判らないものを書いてしまって、こんなひどい要約なら書かない方がマシじゃないの?ってな感じだが、とりあえず「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない 中西夏之」は、すごい面白いという事です。僕が書いたこの文とは比較にならないほど面白いのは当たり前だが、実際、中西夏之の作品をこれまで観てきて常に感じさせられてきた、明確に言い難いけどすごく好ましくて惹かれてしまう感じを、ものすごく見事に説明されてしまった感じで、読んでいて興奮した。


さらに、中西夏之氏自身の著作や雑誌インタビューでの文章等から本書中に度々引用されて紹介される言葉が、林氏が自身の論旨を展開させるため引用しているにも関わらず、文章それ自体がそういう意図から常に逸脱して、不定に揺れ動こうとしているようにも感じられるような独自の感触を持っていて、圧倒的な魅力に満ち満ちている。…ああいう言葉の端々から否応なく滲んで来るある種の体質というか、匂いというか、あるフレイヴァーのような何かが、中西夏之とはまさに「作家」という生き物なんだろうと思わされる…。