「乱れる」


乱れる [DVD]


先週観て、今日2回目を観る。何度観ても素晴らしい。心のそこから「素晴らしい」と云いたい。というか、この先も、何度でも観たいと思わせる。


「乱れる」の他の人が書いた感想をネットで検索して読んでみると、ものすごく熱の篭った、熱い文章がいっぱいある。そうそう、まったくその通りだよねと思う反面、その手でオレの大事な「乱れる」にさわんじゃねーよ!とか云いたくなる気持ちもある。。ひどい言い方だ。言うまでも無いけどこれは単なる幼稚な下らない独占欲です。勿論それは僕もこれから、この文章を見た色々な人にふさけんな!とかなんだこれ!とか、そう思われるのだろう。それで良い。当然の事だ。


一回目に観た直後、本当に冷静さのかけらも失くして感情的に感想文を書いたのだが、まあどう考えてもこれはそのまま人には見せられねえなあ、というようなシロモノが出来たのでそのまま放置して、今日もう一度観て、やや落ち着いて観られたので前のを読み返してみたら、ものすごくつまらない文章だった。


ってか、まあこの日記の文章は、ものすごくつまらない文章が多いとは思ってる。さすがに毎日何か書くとなると、これは良いねえと自画自賛できるようなものはなかなかできなくて、ほとんどが自己満足すら出来ないものになってしまい、やっぱりその場凌ぎ的になってしまうとか、つまらないオチに頼ったりしがちだ。それすら他人のは「は?」ってなもんだろう。まあトレーニングだよ。人のトレーニングをみるのは、良い参考になると思いますよ。


…話を戻すが一回目鑑賞後に書いた文章は、相当つまらない事が長々と書いてあるだけだった。もっとすごく細かい事を沢山言いたい筈なのにそんな事してたら切りがないから最初からあきらめて、ものすごく差し障りの無い事を長めに書いて、最後だけちょっと強く言って終わり。みたいないつものパターンである。あんなに熱い思いで書いてたのに!なんてつまらないやっつけ仕事だ!!…良いと思えるものやちゃんと書きたいと思える物ほど、書くのは大変だ。やはり何か観て、自分なりに落とし込むための最低限の「型」はいるのだろうなと思う。そうじゃないと、ひたすらすげーすげーを繰り返してるだけである。それだと、文章が横に比較されたときに一様に過ぎてしまう。ちゃんと対象について何か書く事を欲してるなら、やはり基本フォームは要るという事だろう。


…と、大幅に話がずれたが、「乱れる」は良かった。まず加山雄三とケンカして、その後酔っ払った加山が電話をかけてきて、高峰秀子がその電話に出る、というシークェンスが劇中の前半と後半にそれぞれ一回ずつ繰り返されるのがとてもいい。あと電車内のシーンの淡い儚い夢のような雰囲気も素晴らしい。だからこそ明け方に高峰さんが目に涙をいっぱい溜めながら加山に言うあのセリフがすごい効果的で、観てる方はあの瞬間に身も心も浮かび上がって成層圏の彼方まで到達してしまうようにすら感じられる。…まあこんな事書き続けてたらほんとうにきりがない。でも延々あらすじを書き続けていたいような気持ちしか持てないというのが正直なところだ。。


まあ、そう思う反面、やはりこういう映画を力いっぱい、すごいすごい言うのはなんか、はしたないというか、大の男がなんだよ、っていう気もする。すごい好きだが、別にそうだと心の中で思ってればいいじゃん、というのも否めない。そういう風な好きさ加減で、一生懸命言葉にしようとするのが滑稽に思える気もする。


よく映画の本とかで「女優の顔がちゃんと撮れてる」みたいな言い方が出てくるとき、僕なんかはそういうのの意味が全然判らない(そういうのが判るほど映画経験とか知識の実績がない)のだが、今回の映画における高峰秀子は、想像だけど正に「ちゃんと撮れてる女優の顔」なんじゃないだろうか?と思った。もう眉間に寄る皺とか、泣き顔とか乱れ髪とか、受話器を持つ姿とか、すべてがこれしかない、という完璧な状態で出てくる。…というかそれは、要するにもう高峰秀子最高だ!と思って、その映画を観終わった後も、何日たってもいつも、高峰秀子の事ばかり頭に思い浮かんでしまうような状態にすらなってしまい、人をそこまで思い詰めさせるってことはそういう映画的な技術がすごいって事なのかな?と想像したというだけの事なのだけど。


あと、小津とか溝口とかにもあったように思うが、その頃の大体60年代半ばまでの日本映画では、戦争で夫を亡くしたその後の嫁ぎ先「家」で自分の生を貫き通そうとする女性が繰り返し登場するように思う。(もちろん、そういう「家」というのは、対象として判りやすい「アウェイ」ではない。そこは他人の家だけど、自分の家なのだ。自分の全存在を賭けるに値する場なのだ。しかしある地点まで来た私を絶対的に拒む場なのだ。)そういう女性というのが実際に沢山いたのだろうし、未亡人こそが、戦後の時代に自分を崩さず生きた人間のサンプルなのだとでも云わんばかりにすら思える。と同時に、エロのモチーフにもなるのだけど。でもやっぱり映画というのはそういう人々の傍らに寄り添おうとするのかもしれない。


あーあ、もっとだらだらと、だらしなく書いていたいが、もうやめた。あきらめた。