「女が階段を上るとき」と「乱れ雲」


女が階段を上る時 [DVD]  乱れ雲 [DVD]


「女が階段を上るとき」と「乱れ雲」それぞれ昨日観た。絶世の美女たちを観るのはこの世に生きている楽しみの中でも最上のものだ、という事を感じる。こうして連日、連続して成瀬巳喜男の作品を観ていると、美しい女性というのは、如何にして美しい女性たりえるのか?の執拗な反復を飽くことなく繰り返し実験しているようで、それ以外の要素とかが、ほとんどどうでも良くなってくる。只、高峰秀子の表情やしぐさを見つめ続けたい、只、司葉子の整い過ぎた表情に浮かぶ憂いを見つめ、前かがみで正座している姿の、並ぶふたつの痩せた膝小僧を見つめていたいと思う。それだけである。


「女が階段を上るとき」での、圧倒的と言うほか無い会話の洗練。高峰秀子はいつもそうなのだが、この女性がちょっと怒ったり感情的になったり忍耐の限界に来てブチ切れたりした瞬間、その映画は、最高のグルーヴとフレイヴァーで輝き始める事が確定してしまう。呆然として思わず、なんて優雅な!と云いたくなるほど充実したテンションで繰り広げられる母親や兄との口げんか。酔って男に食って掛かるときの心にわだかまる塊のやるせなさ、かろうじて自分を支えていた最後の一本の手綱が切れ、男の肩(あろうことか加東大介!やめろ!!)に自らの体を寄せて預けてしまうときの取り返しの付かなさと、それゆえに留まる事を知らず湧き出る甘美さ。


あるいは「乱れ雲」…映画が進展するにつれて、次第に司葉子の表情の、気の滅入るような陰りが薄らぎ、陰気な仏頂面が消えて来ると、観客はもはや、一刻も早くこの美しい顔が完全に笑うところを見たいと願わずにはいられなくなる。それだけのために全員がこの通俗的な物語を最後まで見届ける事だろう。加山雄三が発熱し、人目を避けつつ相手が雨に濡れぬよう二人で挿したひとつの傘を、相手に向けようと押し問答するときの羞恥と焦りと喜びが渾然となった状況での会話、「強情なのね」「僕ぁ、生まれたときから強情なんです」…たぶん「歓喜」としか云えないような何かに包まれて、ほとんど世界がフリーズしてしまうかのような瞬間。…続けて、艶かしさすら漂う司のセリフ「私も強情なんです」


というか、こういう僕の状態って、お目当てのアイドルが出ている映画なら観にいってしまう女子中学生とどこが違うのか?とも思うが、考えてみれば映画なんて小難しい話はともかく、お目当ての何かが観たくて見たくて夢中になってる人々ばかりに取り巻かれてるのが一番良いのだろうと思う。だからまあいいでしょう。


しかし、こうしてたったの数日間で何本も観てしまう(気に入ればそれこそ何回でも見返してしまう)という状態は、果たして本当に良いのか?という懸念は感じている。この世にレンタルショップがなければ有り得ないペースでの鑑賞であろう。昔、成瀬映画にハマッタ人々は、特集上映とか名画座のスケジュールチェックとかで、それこそ何年も掛けて「観た」実績を積み上げていったのだと思われる。おそらくそのような思いで見つめる高峰秀子と、僕が数日間で無理やり自室のモニタに招き入れてしまった高峰秀子は、もしかしたら似て非なるモノ、別人なのかもしれない。まあでも仕方がない。