物語の機械


今やってる映画「トランスフォーマー」では、様々な乗り物が人型に一瞬で変形してしまう映像イメージが売りになっているらしい。(未見ですが)とても軽快にテンポ良い変形の特殊撮影シーンが見られるらしい。しかし、各メカニックたちの表層は相当重々しい特有のディテールで覆われているようだ。


機械というものは、意表をつく動きや変形の予感を湛えていると同時に、巨石のような、何百年も不動のままであるかのような静謐さをも併せ持つものだ。機械は元々人間に拠って作られ、人間の目的に適っており、人間の能力を拡張してくれるためにある訳だから、夢のような喜ばしいものでもあると同時に、一見しただけでは文脈が不明な、不気味で不可解な、何か自分を侵食してくるような怖さをも併せ持っているものでもある。


子供は大抵、そういう機械のイメージをデフォルメしたようなのが好きだ。ある構造の中である機構が作動し、クランクシャフトやピストンが連動して結果的に何かがあらわれるのを感じるのは原初的な喜びである。そこに過去の、(自分の生年より遥か昔の、)様々な歴史とかの澱が溜まっていき、常に動作するシステムと歴史の澱と調和(干渉?)する。風雪に晒されてもはや目的の判らないような文脈が不明な、不気味で不可解な外観の構造体が、時には従来どおり過激に動作し始める。


ある種の子供は、こういう物語の作動だけを待っていると云っても過言ではなかろう。「昔から在る何かが突如動き出す」というイメージは、考えてみると沢山あるのだとも思うが。トランスフォーマーの可変も、猛烈なスピード感ながらそういう「重み」も良い塩梅に利用しているのだろう。


僕はもともと、子供の頃から「トランスフォーマー」というマンガや玩具が、あんまり好きではなかった。通常のトラックとか新幹線とかが変形するというのは、なんというかあまりにも意味がないというか、その文脈が意味不明というか、単に子供ならこれくらいで喜ぶだろう的な作り手サイドの驕りを感じるように思ったからだ。当時、日本サンライズ系戦争アニメを毎週見てるような子供は大体、それらの作品スタッフのメカニカルデザイナーの名前や特徴・嗜好性を知っていて、彼らが如何にその世界で整合感のある機械のイメージを創造せしめているかを強烈な緊張感を保ちつつ見守っていたのである。「どれだけもっともらしい世界を見せてくれるか?」当時の子供が共通に抱えていた思いはそれである。


…しかし僕個人は、その後数年して、おそらく永野護的なものが肌に合わなくて、そういう世界の整合感に拘る事自体にも興味をなくし、結局はマンガ・アニメ全体から距離をとってしまう事になるのである。永野護の「ファイブスター物語 」というのが、とても複雑で魅力的な要素の集合体である事はわかる。が、それでもあのような要素の集積の仕方というのは、僕には理解できなかったし、とりあえず「白けつつノる」事も出来なかった。(とはいえ、システムとしての「モーターヘッド」を稼動させるために「騎士」である男性と「ファティマ」〜女性/人工生命がミッドウェア&ソフトウェアとして組み込まれるという発想の素晴らしさは今も色あせていないとは思う。)


昨日、ちょっと温泉に一泊して帰ってきた。(飯食って酒飲んで温泉に入るだけ。老夫婦の旅行じゃないんだからって感じだが。)で、その出発の際に上野駅のホームで、たまたま寝台列車北斗星」が入ってくるのが見えて、その外観がなかなかカッコよく、それが鉄道マニアとかおたくとか呼ばれる人の気持ちと同じなのか違うのか、わからないが、とりあえずじっとみたくなるような魅力があったので、こんな事を書いている。あの列車の外観の、でこぼこした表面に更に塗装を塗り重ねたような光沢のある感じは本当に素晴らしい。一部に書き入れられた機種名称の文字の美しさや、車窓から夢のように覗かれる赤く照らされた食堂車の内部とか…電車の外観の古めかしさというのは、日本の近代史なんかを色々つまみ読みしていると、どうしてもそういうのと相性が良くて、妙に感動する。なんというかあの塗り込められた塗装の一層一層が日本の近代ではないかという妄想すら呼び込まれる。(北斗星は1988年運転を開始ですからそんなに古くはない。)…まあ、そんな程度で「もっともらしい」物語に触れた気分になれるのだとも云える。