食器


ワイングラスがふたたび割れた。洗ったグラスを拭きながらソファに座ったら、自分の膝にぽーんと当たって、そのまま脚がポキっと折れた。もうあまり、ショックは受けなかった。壊れたらまた買えばいい。何事も無かったかのように補充する。ぜんぜん気分は落ち着いたままだ。風もそよがない。


日々の食器。食材が盛り付けられる器。盛り付けるという言葉をはじめて知ったのは、小学五年生のときの家庭科の授業だった。作ったものを、さあ、盛り付けて下さいと言われて、はじめて知った。盛り付けるって、どういうこと?まるでぼってりとボリュームと粘りのある物質を、コテか何かでボテボテと塗り重ねるような行為を想像してしまう。実際の行為にそぐわない言葉のように思う、いまだに心のどこかで、違和感を感じている。


食器が壊れると、ほんの少しだけ、気分がいい。清々する。たぶん、盛り付けが不可能になるからである。盛り付けなどという言葉を、いや、もしかしてその行為を、心の奥底で許してないのかもしれない。


日々の食器が壊れて、少しずつ消えていくのは、じつは良いことだ。汚れや澱もリセットされる。どんどん壊れていい。その方が、人間の営みの、生きてることの活気というものが、感じられるような気がする、などということは別にない。ずいぶん強引な話である。