「ピアニストを笑え!」山下洋輔


ピアニストを笑え! (新潮文庫 や 12-1)

ピアニストを笑え! (新潮文庫 や 12-1)


この前実家に帰ったとき、(置き場所もないのだからよせばいいのに)久々に読みたいなと思った本を引っ張り出してきて、ダンボール一箱分くらい宅急便で家に送って妻にものすごく迷惑そうな顔をされた。で、その中に山下洋輔の著作も数冊あって、その中野一冊「ピアニストを笑え!」という本を久々に読み返したら冒頭が無茶苦茶面白いので、今読んでるものとかを一旦中断して、そちらにかかりきりになっている。


坂田明(as)、森山威男(ds)、山下洋輔(p)の黄金トリオにけるヨーロッパツアーと並行して書かれたと思われるエッセイで、山下洋輔の文章は面白いと定評があるけど、まさに軽妙で面白くて一気に読ませる文章が並んでいる。


しかし本書の冒頭が異様に魅力的なのは、相変わらずリズム良く軽快・洒脱で笑える文章でありながらも、ドイツというまったくの異文化と直に接触するときの不安や緊張が張り巡らされていて、風習とか作法に戸惑いつつも手探りで自分の為すべき事を手繰り寄せていく、その陰鬱さとか不安と気概が渾然となった、挑戦者特有の自意識がそこかしこにたちこめるめているからだろうと思う。


まず出だしで山下本人が風邪をひいているところが素晴らしい。面白い物語の主人公が、冒頭で体調を崩しているというのはひとつのパターンだろうが、ここでもその重々しい出だしが効果的だ。そのまま無理矢理なれぬ作法の食事をとり、全て吐き出し、ドイツの安食堂のトイレでぐったりし、現地マネージャ(Enjaレコードのプロデューサー)のアラン・ホルストと食事作法を巡って一瞬険悪になりもしながらも、どうにか本来の自分を見失わないよう、モチベーションを維持していく。…江藤淳の「アメリカと私」なんかもそうだが、僕は昔から、外国へ赴いた日本人のこういう不安と自負心のせめぎ合いの文章がとても好きで、楽しげな観光旅行の話とか、世界遺産だの名跡だのの解説にもほぼ興味がないのだが、惨めな思いをしただの差別を受けただの何ともいたたまれない気持ちになっただの、そういう話には目が無いのだ。まああんまりエバれる嗜好性ではないのはわかってるが。


で、やがて楽団一行は「Melusina」というジャズクラブに到着する。4〜50人の客がわいわい酒を飲んでいるところで、貧弱なPAをテストし、いよいよ演奏が始まる。これがあの、山下トリオが途轍もない力でドイツを震撼させる瞬間である。この後の山下トリオの快進撃は、数々のライブハウスやフェスティバルに集まる大観衆をも震わせ、熱狂の渦に巻き込んでいくのだ。

森山が「いくよ。せえのお」といってスティックを振り降ろした。「ミトコンドリア」を始める。風邪特有の筋肉痛で、鍵盤に当たる指先がピリピリ痛む。普段より早めに強く弾き、指先の打撲痛と筋肉痛を一緒にしてわからなくしてしまう。坂田がいれこんで、すぐにも飛ばそうとする。森山はおさえている。おれは森山についた。もう少し待ってもいい。しばらく楽器から離れていたのだ。

 スピード感のすれが気になった。森山を振り向いて、両手の動きをよく見る。気付いた森山は大きく両手を動かして、本日のスピード相場を明示してくれた。ついでに既知パターンを打ちこんでくる。左右左右左左右左左左右。それでわかった。おれの意識スピードが相場よりかなり速いのだ。体力に不安がある時によく起きる現象だ。意識スピードを倍に遅らせ、両手の指先が自動的に鍵盤を動き回るにまかせる。右手がシンバルに、左手がバスドラムにうまく反応し始めた。坂田の音程パターンを高音でフォローする。坂田はもう飛び上がろうとしている。坂田キックが始まった。おれも森山もスピードに乗っている。行っても大丈夫だ。少し早めだが、いっきょに勝負して楽になりたい気もある。森山がトムトムを二回打ってさそって来た。一気に全力疾走に移る。汗をかき始めた。この汗で風邪は全快だと思いこむ。坂田が最高音に駆け登り、駆け降りてきてソロを終わった。激しい拍手が長く続いた。客席を見る。窓際の椅子に座り、長髪を振り乱してキチガイのように全身を震わせている男が見えた。

 「新宿もルクセンブルクもしかめやも、ジャズに変りはあるじゃなし」と詠み、どんどん弾いた。