「旅のあとさき〜ナポレオンの見た夢」福田和也


旅のあとさき ナポレオンの見た夢


数日前に読み終わったのだがとても面白かった。コルシカ〜ニース〜マルセイユブルゴーニュ〜パリを編集者とカメラマンと筆者が旅行する。旅先それぞれに、さまざまな歴史上の出来事や人物が、まるで宝石を散りばめたかのように贅沢に語られ、旅情と相まって大変味わい深い気分にさせられるのだが、それと同時に、毎晩、ミシュランで星がつくようなフランス料理ばっか食うので、次のページではいきなりレストランに入店して、そのまま食事がはじまってしまい、これがまたたまらなく魅惑的であり、要するにナポレオンだのネルソンだのマティスだのココシャネルだの九鬼周造だのニーチェだのコルビジェだの遠藤周作だのと、くどいほどの風味が一瞬にして消えていくそのはかなさが素晴らしい鮟鱇のムースだのオリーブオイルの旨みがぶあついムール貝のマリネだのトロのように滑らかなフォアグラだの脅えながらナイフを入れると魔法のように刃が吸い込まれていく皮の部分にズッキーニを薄く削いだものがストライプ状に貼り付けられているほとんど肉料理のような鱸のパラングルだのブルゴーニュの"食べている感覚の"ワインだの、強烈な塩が肉の香気をひきだしている豚のパテだのラズベリーの攻撃的なまでの酸味が脂をより一層重厚に印象づけるフォワグラだの…そういうのが交互にあらわれては消えてゆく。要するに読んでてひたすら楽しく、腹が減って悶絶する、という感じでした。


サン=テグジュペリという人が飛行機で飛行中に行方不明になってしまった、という事は知っていたけど、それが要するに戦時下における撃墜だったというのをはじめて知った(まあ真相はどうなのかわかりませんが)。というか、、無手勝流な行動が最後には撃墜・墜落という結果を呼び寄せたという事なのだろう。しかし、僕たちが想像する戦争とか撃墜とか墜落というものと、サン=テグジュペリという人が想像していた(あるいは想像すらしていなかった)それらは、まるで違うものなのだろう。というか、考えの枠組みが、いや生き方の組成が、違いすぎる。


知るという事は大切だ。でも同時に、知るという事は屈服なのだ。その仕組みを受け入れた、という事なのだろう。それを知らない、知ったらお仕舞いだ、という判断もありうる。まして今のような環境下では、知らないでいる判断は貴重かもしれない。もちろん無知に開き直る恥知らずのリスクを常に背負うのだが。

一九四四年七月三十一日の早朝にボルゴ空港を飛び立って、消息を絶ったサン=テグジュベリについて、いろいろな憶測がなされた。ドイツ機と激しい空中戦をした、という者もあれば、エジプトに不時着したのでは、という説もあり、捕虜になったという噂も流れたが、サン=テグジュペリを知る者は、誰もが操縦ミスによる墜落を予測していた。
 二〇〇四年四月、ちょうど行方不明になってから六十年して、マルセイユ沖のリウ島付近に、サン=テグジュペリの搭乗機が発見された、とフランス文化省が発表した。前年十月に引き揚げられた残骸を精査した結果、エンジンカバーに残された製造番号から、確定されたのである。
 機体に銃痕はなく、時速六百キロの速度で、ほぼ垂直に海面に衝突したと推定されている。大方の予想通り、操縦ミスかパイロットが意識不明になった結果だろう。<二〇〇八年三月十五日、サンテグジュペリの搭乗機を撃墜した元ドイツ軍パイロットが名乗り出た。パイロットは、ホルスト・リッベルト氏(八十八歳)。任地の南仏基地から出撃、サンテグジュペリの搭乗機を撃墜したという>
  事故を起こす前、すでに作家は、一機のP-38を大破させていた。航空技術が飛躍的に進歩した戦争中に、三年間のブランクは致命的だった。そのうえサン=テグジュペリの体調は、自分で飛行服も着られないほど悪化していたのである。英語をまったく話せない彼は、連合軍の管制官とコミュニケーションをとることができなかった。飛び続けているかぎり、死は確実だった。
 彼の強烈な個人主義は、システム化された近代戦にはまったく適合しなかった。だが、名声を楽しむことよりも、前線で飛び続けることに執念をもやしたその生き方は、長い年月を超えても、輝きを失っていない。サン=テグジュペリは、空軍関係者にとっては、厄介な客に過ぎなかった。だが、この自己中心的で、強引な客のおかげで、人間は宿命と戦い続けることが出来ること、その必敗の戦いをとおしてのみ、魂とよびうる精神の結晶が手に入ると今日信じることが出来る。