成瀬の30年代と40年代


http://homepage2.nifty.com/RYO-TA/joyu.jpg (女優と詩人)


CSで特集している戦前〜戦中の成瀬映画のうち数本を観ただけだが、30年代の諸作品にとりあえず感じるのは、登場人物に気ままで自由な身分の人々が多いということだ。。女は大抵、女優だったり流しの芸人だったりと華やかだが不安定な浮世稼業であり「妻よ薔薇のやうに」(1935)の千葉早智子はOL役だが所謂「モガ」の浮世立ったイメージを背負っているがゆえにやはり地に足がついた感じはせず、時代の上辺にたゆたっているる人々の一例、という感じだ。男も売れない詩人やら、売れない小説家やら、金山を探す山師などなど…まともな定職に就いてる人は少なく、これもやはり根無し草的・プー太郎的だ。少なくとも戦後の成瀬映画に出てくる登場人物たちの殆どが、男は勤め先と家との往復、女は主婦である事の枠の中でドラマを展開させていた事を思えば、戦前の登場人物との雰囲気的な違いはずいぶん大きいとは云えるだろう。(その中間に「浮雲」がある?)


で、そのような根無し草的・プー太郎的登場人物を支えているのはやはりある種の経済的豊かさだろうと思われる。「妻よ薔薇のやうに」で千葉は華麗な「モガ」スタイルで闊歩しているし、実の父親が二号やその子供たちと暮らす家は貧しそうだが、それはどちらかというと第二の奥さんの「清貧」とか「清い心」的イメージをまとった貧しさとしての印象が強く、第一亭主が山師なのだから貧乏でも当然とも思える。。千葉の実の母親である本妻も、歌詠みに夢中で生活全てをそれに捧げており、家人としての勤めをほぼ放棄しているような有様なので、ますます各登場人物たちのしがらみから切れた自由度が高く感じる。そんな自由な空間で、人間的に立派だと評価できる二号妻こそが実の父親と生活を共にすべきだと実の娘である千葉が結論付けるというオチで、結構すごい話だと思うけど、そういう飛躍を支えるのはやはり時代とか経済の豊かさではないか。


豊かさは「女優と詩人」(1935)でも感じられる。この映画は、売れない詩人(童謡作家)の月風(宇留木浩)と売れっ子女優役の千葉早智子の夫婦に、月風の友人で同じく売れない小説家の藤原釜足が絡むコメディであるが、印象的なのは主人公夫婦の住む家の雰囲気で、外見は粗末な日本家屋であるが、中の調度品やインテリア類などがいちいち面白く、大正〜昭和初期独特の豊かさのようなものがそのまま映りこんでいるようにも思える。夫婦それぞれの服装や外見も趣味が程好く行き渡ったような個性がある。大体、この映画の登場人物たちは皆それなりにお金に困っており空腹も抱えている筈なのに、なぜかあまり悲壮感がない。この家では千葉演じる妻の女優としての収入で家計がやりくりされているのだが、千葉の生活も女優らしく奔放である事が感じられる。総じてかなり豊かな時代を背景に、やりたいように好きに暮らしている人たち。という印象で、挿入される他所の夫婦の心中エピソードや保険金のエピソードも含め、ある意味現代に近い感触もある。戦前の日本にかつて、こういう雰囲気がそれなりにリアルであるような一瞬の豊かさというのがあったという事かと思う。


これが「なつかしの顔」(1941)になると、数年前までの雰囲気がウソのように何もなくなってしまう。「なつかしの顔」は成瀬の戦中の傑作と云われてもいるようだが、僕にはその傑作性とかよりもむしろ、映し出されているおそるべき殺風景さやエピソードの少なさの方に驚きをおぼえる。この映画にはまるで、栄養が行き渡らずげっそり痩せてしまった人を久々に目にしたときのような、一瞬ぎょっとさせられるような感触がある。国家が変貌の過程にある中で何かを作るというのは、メッセージや内容をある方向性に強制させられるとか検閲されるとか、そういう事もあるかもしれないが、それより真の兆候というのはむしろこんな風に、過剰さが何も無くなって、そこには殺風景な剥き出しの物語しか無い、というような事なのかもしれない。。(「秀子の車掌さん」もどことなく同様な感触がある…)


まあ、1941年の時点でああいう銃後の家族による美談が作られるのは当然の事なのかもしれず、ものすごい田舎の風景ばかり映っているのも当たり前かもしれない。僕が映画を妙に時代とかの観念で捉え過ぎている事が影響しただけなのかもしれない。「なつかしの顔」〜「女優と詩人」と、続けて観たから何となくそう思っただけという気もする。過剰さがないとか、省略が冴えているとかいうのは確かに映画にとっては「良い事」なのだろうから。そこに時代の状況とかは関係ないだろう。


しかし「女優と詩人」で藤原釜足が空腹である様子と「なつかしの顔」の子供やその友達が空腹である様子は、もう「迫力」が違うというか、空腹である事の切迫感がまるで違うのは確かで、そういう事だけが過剰に気になってしまう。その感じとは、もはや演出とかそういう話を超えているように思われる。あるいは母親役の馬場都留子の、干からびたような無抵抗で弱々しい笑顔を観てると、なぜか説明できないような、妙な憤りというか嫌悪感を感じてしまうんだけど、それはなぜなんでしょう?