自分メモ

■「保坂和志「小説的思考塾 vol.7」」自分メモ

すぐれた作品の力が、素材そのものを、こちら側にぐっと引き寄せて展開させる。これが木だ、これが金属だ、言葉だ、言葉の命名、これがそれだ、それこそは大地だと。ふだんは隠れていて想像の外にあるものが、そのとき垣間見える。劇的でもなくなんでもなく、それが露呈する。

作品自体は、媒介でしかない。なんでもないもので、いずれ消えてしまうようなものである。しかしそれを通して、大地を見出すことができる。作品が失敗するとは、何かの媒介になろうとして失敗したということだ。見えない大地に対して、なすすべなく消えてしまうということだ。

ギリシャ悲劇とはつまり、人間と運命との抗争を描いていると思わなければいけないのではないか。つまり世界が、大地に対して抗争を挑む様子を描いているのではないか。

 

■「アーティストとの対話:岡﨑乾二郎氏を迎えて」自分メモ

https://www.youtube.com/watch?v=gAGhoGThAeo&t=293s

抽象も具象も、どうしたって歴史的なものに規定された概念でしかない。かつて69年の全共闘学生らが夢見たような「解放区」をそのまま文化・歴史化していくことが出来なければ、抽象も歴史化され得ない。

具象とはつまり、図像的に認知できる描かれ方が採用されている絵ということになるが、たとえば仮に同時代の枠を外れても、あるいは歴史がなくても、文化がなくても、それが本当に同じように私の眼にそう見えるのか、それらに規定されている自分の眼の条件が変わっても、はじめと同じようにそれが見えるのか、それへの疑問が生じたときに、単純な具象を支える基盤は揺らぐ。そしてあるときついに、「どんな具象でもわざとらしく見えてしまう」ような時点を迎えてしまうことで抽象絵画がはじまる。

文化とは、様々な事物に意味づけをする仕組みである。そのような状況において具象とは、対象(事物)そのものを描いているのではなく、対象(事物)についての描き方自体を、問題にしていると言える。いわば人工物の模倣である。

一般的に(既成美術史的に)キュビズム以降、だんだん抽象的な表現が見えてくるようになったとき、それまでの作家(画壇、制度、文化、歴史)がそちらへ舵をきって転向していく(解放区を目指そうとする)のではなく、たとえば女性作家、あるいは非西欧国出身作家など、それまでは不可視であったはずの非中心的立場、いわば「周縁作家」が台頭し始めるように思われるのはなぜなのか。それは美術という制度の奥底にある、さらに根深いものの仕組みが揺らいだことによるのではないか。