マネ


会場で、作品の前で長時間、ひたすら作品を食い入るように見つめている人というのがいる。


寡黙に、厳しい表情で、視線だけはめまぐるしく動かしながら、画面上の出来事をひたすら追いかけている。


もしかすると、彼はおそらく、その絵の前で、必ずしもこころ安らかに楽しんでいる訳ではあるまい。


観て考え、混乱し、頭を抱え、なおも観て、記憶をまさぐり、何かと何かをつなぎ合わせたり分解したりしながら、立ち尽くしたまま、ひたすら飽く事無く、格闘しているのかもしれない。


…格闘?何と格闘しているのか?それはわからないし、あるいは格闘などということばがふさわしい訳でもないだろうけど、でもとにかく、彼にとっていま、目の前の出来事と、自分の頭の中で起きている出来事が、現時点における世界のすべてであることは、間違いないのだと思う。


おそらく展覧会とは、彼のためにあるのだ。とりあえず、この催しは、他でもない君のためにある。


そして作品というものもまた、君のためにあるのだ。


なにものかの前に立ち尽くして、混乱するということを許容してくれるしくみ。そのように想像力の外側と通信できる可能性が開かれているということ。


作品こそが、そのことを確認させてくれるのだし、それをこころみようとする人のためにこそ、展覧会はひらかれている。


三菱一号館美術館で「マネとモダン・パリ」展。


マネの絵の訳のわからなさ、というのは、たぶん美術という枠内で理解できる範疇を超えているのではないか、と、なんとなく想像している。


…というか、そもそもすぐれた美術作品の訳のわからなさ、というのがほぼ例外なく、美術作品という枠組みで認識可能な範疇を超えているのだろうが。ゆえにすぐれた美術作品ほど、そのような意味での「理解」を拒むかのように存在している。というか、「すぐれた」「一流の」「評価に値する」美術作品という考え方自体がすでに、美術作品という枠組みで認識可能な範疇内の評価に過ぎない訳で、その意味で「この美術作品はすぐれている」ということばに、すでに矛盾がふくまれている。


というか、そんなことはべつにどうでもよくて、まあでもマネはかなり面白かった。超!訳がわからない感じで、意味もわからない感じで、すごかった。今更だが、とても新鮮な、目の覚めるような思いを味わった。あらためて、19世紀以降のフランスというものについて、もっと知る必要があると思った。でもそれは決して、マネの諸作品理解のために、という事ではない。


というかそもそも、19世紀以降のフランスを理解するとか、マネの作品を理解するとか、そういうのは基本的に不可能なのである。とはいえ、マネのこの、まったく意味のわからないこの感じというのは、なんとかして、思いつく限りで、自分が知るための、できることをしなければ、知るための行動を起こさないわけにはいかないという、極めて強い気持ちに囚われてしまうようなパワーがあるのだ。


強烈さとは要するにそういうことなのだし、作品とは常に、そういう他なる何かへの誘惑としてあらわれるのだ。


たとえば「マクシミリアンの処刑」という作品の、あまりのわけのわからなさを、美術の問題として考え続ける事が可能なのだろうか?


パリ・コミューンで処刑された人々の訳のわからない死を、解釈して理解することは可能か?また、そこに意味はあるか?普仏戦争で戦死した兵士は?太平洋戦線の、中国戦線の、ミッドウェイ沖の、レイテの、沖縄の。


あらかじめ定められた回答に対して、目的論的に真っ直ぐに向かう事もまたつまらない。しかし言葉というのはすでに一歩踏み込んで自分の身体を浴槽に腰まで浸らせて、その濁った水に浸る事を引き受けるという事で、はじめて使用許可を得られる道具であるので、ある程度は決め打ちでやらざるを得ない。