幕臣を好み候


最近、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読み始めたのである。今更!!…ノンフィクションとか歴史小説とかのジャンルは、僕は今まであまり読んでこなかった。そういうのは、好きなやつは本当に好きで、それこそクソ長い文庫本が何冊にも渡るようなのを、中学生や高校生のときに片っ端から読んでいるようなやつがいっぱいいるもので、この「翔ぶが如く」とか司馬作品なんかは高校生のときずいぶん読んだ、などという人もずいぶん多いのではなかろうか?


…しかし斯く云う僕は高校生とかの当時、司馬遼太郎なんてまったく興味なかったし、明治維新とか尊皇攘夷とか坂本竜馬とか新撰組とかあの手のものは全然興味なしで、それって要するに「男塾」でしょ?少年ジャンプでしょ?とか思ってたし、そういうのを夢中になって喋るヤツからなるべく距離を取りたかったし、まあ、かなり嫌悪していたくらいのもんだったのだが、今、この年になってむさぼるように読んでいるのだから、ほとほと哀しいものだと我ながら思う。…まあでもこりゃあ圧倒的に面白い。なんというか、どこで読み始めてどこで読み終わっても、面白さに抑揚や変化がなくて、品質保証されている感じで、たとえば半ページだけ読んだとしたら、半ページ分だけ、ちゃんと面白い。要するに、文章の連なりが極めて断片的で、エピソードも自律した場面の連続なので、ほとんど前後と無関係にそれだけを味わえ、楽しめる。


こういうのってやはり歴史小説ならではの感触なのだろうと思う。日本の歴史という、あらかじめ強固で動かしようの無い固い物語の流れがとりあえず定まっていて、何年にこういう戦いがあって、何年に誰それが死ぬとか、そういうのは動かしようがないから、それを基に細かな表情の違いを書き分けていったり、あるいは行きつ戻りつしながらある仮定に基づいた試みを何度も繰り返したりできるのだ。読む側もそこに書かれた人物の振舞いや所作と、頭の中に既にイメージされている「西郷隆盛」とか「川路利良」とか「桐野利秋」とを混ぜ合わせて楽しんでいるのである。だいたい、西郷隆盛がなぜ征韓論に拘ったのか?なぜ西南戦争にまで突き進んだか?という事を「知る」事は、後世の人間には絶対不可能な事なのに、いやそれだからこそ余計に、そこにおそろしく豊穣な物語となり得る原質がびっしりと詰まっていて、だからこれだけ冗長な饒舌な脈絡のないものが後から後から生まれてくるのだ。なので、おそらくこれはもう、物語の体をなしてない事になればなるほど、面白い事になってくるのだともいえる。


何はともあれ、ようやく一巻目を終えるところである。なんだかんだ云っても無茶苦茶面白いので幸福である。なにしろ出てくる人が皆完全にカッコ良くて、もうそれだけでこれほど楽しい気分にさせてくれるのだからいう事ない。っていうか、これがまだ風景とか内面とか自意識とか告白とかを持っていない時代の人間たちで、彼らにとって生とは仕事でしかなくて、それに失敗すると死んでしまうような人々な訳であるから、やっぱり明治時代ってすごいと思う。これは間違いない。この、何もかもが映画のオープンセットみたいにして作られていくような、ものすごい活気といい加減さと底抜けのオプティミズムに満ちた空気だけは一度で良いから過去に思いを馳せて想像しておくべきだと思う。まあ今更僕が言う事でもないけど。