自由

三島由紀夫は一九二五年に生まれた。大岡昇平よりも十六歳、小島信夫よりも十歳、三島が年少である。田中小実昌とは同い年。司馬遼太郎は二つ年上。彼らひとりひとりが体験した戦争があり、三島由紀夫が体験しなかった戦争がある。

先日の東大での三島の映像を、まっとうな社会人そのものに見えると昨日の自分は書いたが、三島は冒頭で、非合法的な暴力の肯定を唱えている。それはどう考えても、まっとうな社会人の発言ではないとも感じられる。とはいえ、政治革命が原理的には合法的な暴力をもっての実現が不可能である以上、それを志向する者が非合法的暴力を肯定するのは当然のことだとも言える。合法を維持するための非合法性が必要とされるというか、合法と非合法の互助的な関係をそこに想像することもできるかもしれない。それでもさすがに暴力肯定には賛同できないのは、暴力とは嗜好だから、全員が付き合うわけにはいかないがゆえだと自分は思う。

全共闘はまるでダメだったし、なかなか難しいけど、それでも今もなお闘争について考える必要はあるとも思う。言葉でやり取りするのは合法的だ、少なくとも今はそうだ。しかし、それは今後もずっとそうであるとは限らない。言葉を非合法的行為として扱わざるをえないこともあるかもしれない。その意味では、現時点でも非合法的手段を否定してはいけないということになる。まあ言葉も嗜好ではあるし全拒否も可能だし、それも尊重されるべきだが、そうでないなら、そもそもこれまで「敵」が常に合法的であったためしはないのだから、非合法には非合法で応酬するし、闘争の形式はそのときごとに編み出されなければならない。

たぶん、とりあえず外で静かに酒を呑んだりタバコを喫ったりするだけでもいいから、たったひとりで、楽しいまたはかなしい存在であること、向こう側がけっして手に触れることのできない、こちら側だけの内面を守るということ。

自由主義にもとづく運動とは、おそらく合法と非合法のきわどい線を踏んだり踏み越えたり踏みとどまったりするものだ。法令順守的志向の強い民主主義に対して、おそらく世の中はもっと自由主義的な動きが活発になっていく、それが正しいとも思うが、また同じことのくりかえしなのか…とも思う。埃っぽくて騒々しくて気が落ち着かない世の中がのぞましいが、そんな世の中はいやだ、自分は背を向けたくなる、でもそうなっていくべきだろう。