武士也ー


俺が今、ここにこうして存在すること自体には、何の意味もない。俺そのものはすなわち只の肉体に過ぎぬ。肉体はそれだけでは無価値だと俺は考える。その中に殊更喜びだの悲しみだの見出そうとするなど滑稽な所作にほかならぬ。断っておくがもちろん現に今、こうして向かい合った俺の目に貴様の姿が映りこんでいる事自体を無意味だとは云わん。貴様の面を見て貴様の話を聞いているのは痛快な気分だ。貴様とこうして過ごす時間を俺は何より楽しんでいる積りだ。しかし俺が云いたい事は、俺が今の状態に満足して、湧き上がる喜びを貪っているだけでは、やはり只の無価値な「肉」に過ぎぬという事なのだ。


…それよりも真に重要な事は、男子が一生を捧ぐに値する仕事がある、という事ではないか?そして、俺や貴様や同舟の者が、そのための志を共有しているという事実ではないか?それがあってはじめて、俺達は只の肉体以上の存在になれるのと違うだろうか?


勿論、志とは目に見えるモノではないし、手で直に触って感触を確かめることもできぬ。その様相をしげしげと観察できるものでもない。しかし、よしんばその手触りを直に感じ、撫でさすり、細かな様相を心ゆくまで観察できたとして、それで貴様は何を得る事ができるのか?その観察によって、貴様は一体何を知るのだ?そしてその結果に、如何ほどの満足を感じる事ができるというのだ?そもそも貴様は何を求めているのだ?充足感や優越感や自足感か?…仮にそれを得たところで、次に貴様はどうするのか?一体何をどこまで求めるつもりだ?そんな事を繰り返しても、いつか手ごたえのある結論に辿り付けるとは、どうしても俺には思えぬ。むしろひたすら虚空を掴もうとするに等しい所作ではないのか?


…そもそもなぜ俺が貴様にそのような事を話しているか判るか?俺は貴様を気に掛けている。心配なのだ。俺から見る限り、近頃の貴様は何かにつけて対象をしきりに観察したがり、細かな表情を執拗に気にする傾向があるようだ。はっきり云うがそのような態度は潔くないし、美しさもない。品性にも欠ける。男子一般の振舞いとして鑑みても、あまり褒められた態度とは云えないように、俺は思う。志に対して誠実たらんとする必死さや集中の度合いが感じられない。そうは思わないか?思わんのだったら今、胸を張って皆に毅然と己が姿を晒し、皆の間に広がっている誤解を溶かすために釈明できるか?できないだろう。いつまでも己を戒めず甘やかしていると、終いにはいつも物欲しげで醜悪なで卑しい顔付きになってしまうぞ。くれぐれも云っておくが、俺は決して貴様にそのような人間にはなってほしくないから、こうして柄にもなく偉そうな物言いで苦言を呈して居るのだ。俺は貴様を真の友だと思うから、こうして口やかましい事をくどくど申しておるのだぞ。なんだその面は、迷惑そうにするな。


俺や貴様や、皆の頭上に矍鑠と輝く「志」がある、それを信じるという事。それを忘れたか。とても単純な事だよ。それで充分ではないか。それ以上に優しく心の奥底まで沁みこんでくるような安らぎがあるか?それ以上に力強く勇気付けてくれるものがあるか?皆で、いつかそう語り合ったではないか。晴れやかな顔で貴様も肯いていたではないか。それがもはや、信じられなくなったのか?だとしたら、いつからそうなった?つまらぬ本でも読んだのか?何を食った?何にかぶれたのだ?…まあいいさ。病はいつか癒える。誤った考えもいつか自己矛盾を生じ自ずと瓦解するものだ。俺は、人間の行いやこの世の中というものに、放って置いても勝手に正しい道に進んでゆく作用が含まれている事を信じているんだ。


それに、俺達は既にもう、一身同体なのだ。いずれにせよ、決して引き返せないところまで来たのだ。それがこの世界の現実なのだ。そうだな?…皆で明け方には出発して、そしてそのあと、真の意味でひとつになるだろう。


…恐ろしいか?俺は恐ろしくはない。たとえからだが砕けても、それが如何ほどの事だろうかと思う。今こうして、互いの表情を見つめながら、はっきりと「志」が、俺や貴様や、皆の胸中に燃えている事を感じられたら、それで充分じゃないか。それ以上尊いものがこの世にある筈が、ないじゃないか。


俺達はな。礎となるんだよ。決して無駄ではない。犬死ではない。確固たる、明確な、具体的な礎になるんだ。基礎だよ。これ以上の喜びがあるか?・・・おそらくこれから、土に還った俺達の頭上に、何百年も何千年もかけて、目も眩むような輝かしい建造物が、夥しい勢いで高く高く築き上げられていくだろう。もう二度と、俺の母上や妹は泣かなくてすむ。そういう平和な世の中が実現するんだ。父上や母上や妹が揃って、家族が皆一緒に、永遠に笑って暮らせる世の中が来るんだ。俺達のつくった礎の上でな。…それを思うだけで、俺は小躍りしたくなる程嬉しいよ。


だから、何もかも終わったら又会おう。俺が先に、貴様を見つけるぜ。今ここでこうして話したのと同じように、また二人で会って、話をしような。…今度は空の上からゆっくりと、このあとの世の中の有様を、天上に腰掛けて笑いながら眺めようじゃないか。