別の考え


そこにいて立ったまま、別のことを考えている。誰かが頭の中で考えている事は目に見えず音にも聴こえず気配としてすら感じられないのでいつも平然とすれ違ってしまいすれ違ったことさえわからない。出来事はなにも起こっていない。雨の日の満員電車の中で、立ったまま、別のことを考えている。僕が何か別の事を考えていても、それは誰にもわからない事だ。僕が何かを考えているその気配すら、誰にも感じられないはずだ。しかし出し抜けに手と手が触れ合って驚く。誰かが何を考えているかはまるでわからないのに、唐突さには常に驚く。暗闇でいきなり人にぶつかるときの驚き。気配を感じて手を伸ばした先に、予想もしなかったような触感と出会うときの。しかしいまは、人と人とが完全に密着した状態で、皆が疲労と不快の闇の中で、息を殺している。皆が、別の事を考えているのかどうか、それはわからない。僕はおそらくそんなことを考えている。立ったまま居眠りをしている女性が、ときおりがくっと膝を折り数センチ下に落ちそうになって頭を前の男性の肩にぶつけそうになって危うく戻る。僕はその女性の頭が、さっきから背中のあたりにこんこんとあたっているのを気付くでもなく気付いていたのかもしれない。それが僕だったのか前の男性だったのか、僕の手に持ったままで、後ろから圧迫されて前の男性の背中に押し付けられて動かせなくなった鞄の、取っ手部分の金具の表面にこまかい湿気の水滴が浮かんで光を小さく反射しているのを見る。こんなすし詰めの満員状態でもきちんとしかるべき場所に結露して水滴の生じることの律儀さを感じながら。車輪や動力機関の低い唸り声のような音のほかは水をうったような静寂がたちこめたままの車内で、皆が別の事を考えているうちに、ほとんど無音のまま、電車がプラットホームにゆっくりと停車し、ため息のような排気音とともにドアが開くと、濡れた傘がずるずると人の脇を引き摺るようにして引き抜かれ、何人かが先行してドアの外によろめくように放出された後、鋳型にはめられたような格好のままでじっと固まっていた人の塊の半分くらいがわっと崩れ、ほどけるようにわらわらとドアから外に向かって放出されていき、凝縮された密度が一挙に開放され、雨の湿気を含みながらも冷気を含んだ新鮮な空気が人の替わりにどっと入り込んできた。さっきまでのことがすべて千々に砕けて、出来事すべてが消えた。