大岡昇平「出征」で、当初補充兵として招集されながら、だまし討ちのように前線への出征が決まった主人公は、やがて来たる自らの死を覚悟し、迷いながらも最期に一目会うため東京に妻子を呼び寄せる。大変な苦労をして東京に着きほぼ偶然のように再会した妻子と、ほんの一時間かその程度の時間を共にしただけで、やがて主人公の乗った汽車は走り出して東海道を過ぎて九州は門司へと到着する。門司の土地で二週間ばかりの待機を経ていよいよ輸送船に乗り込み、船はフィリピン島を目指して出航する。主人公は甲板から離れていく土地を見て、自分が日本を見るのもこれが最後だと思う。
大岡昇平の小説においては、主人公は生き、僚友や上官は死ぬ。これは必ずそうだ。あたりまえのことなのだが、この動かしがたさには、なぜか読む者を呆然とさせる何かがある。いくら主人公が死を覚悟していたとしても、結果的には生還できたのだから、だからこそこの作品が書かれた、それは主人公自身の述懐として、本文中に記されている。にもかかわらずその事実が、ほとんど説明できない不思議な出来事のようにも感じられる。生還するかしないかという事よりも、観察は生きてなければ出来ないという前提がまずあり、その結果を持ち帰るには、生還が必要だということで、それらはすべて結果的に偶然そうなった。それは今読んでいる小説そのものが、偶然の結果できあがったものであるということの驚きに近い。誰かの観察結果が巡り巡って、今なぜか我々の手元にあることの驚きに近い。
大岡昇平の小説では、近くで死んだ僚友の様子、その絶命の瞬間までが丹念に描かれる。その一線を越えるか越えないかというよりも、その線を越えたのが、この私ではなくて目の前の誰かだったということ、それが私でないというところに、小説が出来るか出来ないかのギリギリのラインがある。
「歩哨の眼について」で、主人公は見ることの不完全さ、というよりも不完全にしか見ることのできない不幸について描いている。
視覚が正確に対象をとらえることと関係なく、私たちは、観察したいものを見ている、あるいは、観察したくないものを観察しない、すべてを観察対象にせず、はじめからそのようにフィルターをかけている。
大岡昇平の小説の主人公は、ほぼ常に死を覚悟している。しかし自分が自分自身を、自らが死にいたる瞬間までを、人は正確に観察できるだろうか。あいつが死んでいったのを私は見たが、それは死を見たことになるのか。私はいずれ私が死ぬときにも同じようにそれを見たとして、それでも私は私の感覚の不幸さゆえに、つねに不完全にしかそれを見ないのではないか。