クラクラ日記


元々「日記」はかなり昔から書いたりしていた。小・中・高・大学くらいまで、所々欠けてるけど大体書いてる。まあしかし、書いたものをこんな風に直接外部に晒して公開するなどという事ができる日が来るなんて、想像もできないような時代だった。昔の日記なんかはとても人には見せられないような恥ずかしいものだが、でもそれは決して他人には読まれないという事が前提となって書かれているから当たり前である。というか、やはり自分の「死後」を想像して書いているのだ。自分が亡き後に、読まれる可能性をすごく考えている。しかしその時にその文章がある事で、何か効果を発揮してくれる事が望まれてる訳ではない。もっと生煮えで取り留めのない事が書かれていて、そうなると結局、死後に読まれるか、または死の直前に焼却、の選択の狭間で揺れ動いているのだと思う。


正直、それらの文章が書かれたノートの束は、将来誰かに読まれる方が良いのか焼却された方が良いのか、未だに決められないものとして、僕の中にある。…というかそれらは、今の時点で考えれば全く取るに足りない内容であって、いまさら読まれようが焼却されようがどっちでも良い。青臭い文章で笑いのネタにもならないくらいのものではあるのだけど、そういう事ではなくて、質はともかくこれらの文章が書かれた理由は何だったのか?一体どうなるべき文章群なのだろうか?というのが解決しないままなのである。…まあでもこのまま誰にも見せずにいつか捨てるのだろう。おそらく。


というかそんな事よりも真に憂うべきは、僕が現在も「ブログ」と称して、こうして公開しながら何事かを書き続けている事態の方かもしれない。それは昔の日記を書く行為と較べて、…慎ましさとか品性とか奥ゆかしさとか、そういう部分において、昔より格段に劣っているのかもしれないなーとは思う。公開しながら書くなんて、実際これほど自己顕示欲丸出しで損したくないけどご褒美だけはちゃっかり欲しがるような破廉恥な行為もないのかもしれない。などという事も思わなくもない…。とか言って、でも非公開でやれるか?と云ったらやはりやれないのだよなあ。その意味で「公開」っていうのはそれだけで不可逆的な決定なのだと思う。もう離陸しちゃったんだから、どこかに着陸するか墜落するかしか、選択肢がないようなものだ。


美術についてでも音楽についてでも映画についてでもそうだが、何かについて書くとき、一番大事なことはその対象について、正面からしっかりと何かを書くべきで、その対象を利用して、それの象徴するものとかそれの代表するものだとかについて話をシフトさせるだとか、それに感動して翻弄された「私の心の中」などを一生懸命書いても、そんなの犬も食わない、というのはよく云われる事である。しかしそれはとても重くて厳しい言葉で、本来そうそう軽はずみに口にできるような言葉ではないだろうとも思うのである。というか、そこで想像されてる「正面からしっかり」の方も、批判対象と同程度には軽々しくて怪しいと思う。おまえの心に何が響こうが、他人に関係ないよ、という言葉は圧倒的に正しいが、だからといって「正当な評価」とか「まっとうな批評」とかがこの世界に存在している訳ではないし、あるいは横のつながりを重視した、他人に関係のある、他人の役に立つ、他人と自分を媒介してくれるような内容だけを書き続ける訳にもいかない。


まあ要するに、何か言葉としてやけに立派で猛々しい感じのものには思わず引いてしまうし、そうじゃないちょっとしたシナというか色気を感じさせるものには思わずつい惹かれます、というだけの話なのかもしれない。。そういう当たり前の感覚をないがしろにしてるような言説は好みじゃないんです。。などと書いていると、もうこれは好きなタイプ嫌いなタイプとかと同じような、どうにも浮ついた話でしかないとは思う。でも僕は結局、それがこの私の心にどのように響いたかを、自分なりに書き起こしていくしかない。もちろんそのとき、私が揺るぎないものとして前提とされなければいけない事はしっかりと自覚して、その事をあきらめつつ…なんていう書き方をすると如何にも純朴でナイーブなか弱き自称誠実クンの告白みたいになる訳だが、まあ結局、何かを選ばないと書けないのだし、全部相対化された中のランダムに選んだスタイルでしかないから、とか言う気もなくて、僕はいまのところこれだけの器です、というスタンスでやるしかなくて、そこでどれだけ努力できるか?という事があくまでも慎ましく試されるべきだろうと思う。


実際、このブログでは、自分がそんな疲れるような事をテーマにして書いてる事はほとんど無いので、大抵いい加減に書きとばしてるだけだけど、でもたまに密かに気合い入れて書くときもある。そういうときは要するに「覚悟を決めて」「勝負してる」訳だ。それを書く事でもう元の地点に戻れないような内容というのはある。それがもし間違ったら相当なダメージを受けるという事もある。勿論それって全部、自分の中で勝手に沸き起こってるだけの事で、他人とは無関係な事なのだが、でも書き続ける事に意味があるとしたら、それしかないと思う。もちろんそういう行為を続けた結果、何かを得られる訳でもないだろうし、何の得もない。いやむしろ、書かれた文章が最終的に、自分を証明したり、自分を守ってくれたり、自分を説明してくれたりするような結果になっては駄目なのだと思う。そういう「仕込み」をしてる訳ではないのだ。書き上がったものがどういった代物なのかの答えを宙吊りにしたままで書き続けないといけないのだ。とりあえず一番楽しいのは、書かれたものが数日たって、異常なよそよそしさで自分の前にあらわれるような瞬間だ。で、死の直前に焼却するのが理想となるのだが、ブログはもう人の目に晒されてる分だけ純度は落ちてるのだ。…ってかそれを「純度」とか言ってしまう俺って何なの?どこの中学生ですか?(笑)…でもたとえば「アンネ・フランクの日記」とか、ここで例として出す唐突さはどうかと思うが、でもあのぞっとするくらいの厚みを伴った孤独。…あの奥底が見えない程の深海のような深い厚みを僕はとても好きだ。そういう、窺い知れぬ他人の、深い深い孤独の奥底を想像して、それだけを信じていたい気持ちがある。