なびす画廊で利部志穂展


小動物とか虫とかを捕らえる罠のようにも見えるし、河川敷のホームレス住居の入り口付近に吊るしてある得体の知れない仕掛けのようにも見えるし、不燃ゴミの点在にも見える。しかし、いずれにせよぱっとみた時の印象は、あまりにも何の変哲もない。とりあえず、かなり意識的に、何かあると信じて、たとえば「耳を澄まして聴く」という風な感じで、そのまま「目を澄まして見る」感じで、ひとつひとつを丹念に、その組まれ方というか、仕掛けというか、成り立ちの具合を目で追っていくが、仕掛け自体に驚かされる訳でもないし、何か統一的な法則によって組み合わされている訳でもおそらくないし、何かしら謎が隠されてるわけでもなさそうで、ただ、その様子を、目で追う事だけは許されており、錯綜してどこにも行き着かないままの視線を漂わせて、それを繰り返して、些細な断片の積み重なりが記憶として堆積し、普通なら絶対に気に留めないような眼の前のありさまによってできた記憶の堆積に、また一々留まり、それに留まっている自分の感情を反芻し、もう一度それを見返すような事になって、観たものの記憶がさらに複雑に錯綜する。


最終的に「見るに値する何か」があった、と思えた訳ではない。作品として素晴らしい、とか、そういう言葉も、あまり似つかわしくない気がする。でもあえてそれを見る、というところが「なぜ僕があえてそれを見る?」という部分において腑に落ちないものを微かに残しながらも、結果的に、僕がそれを見て、そして何がしか、自分の意識に変容をきたした事を記憶している。おそらくは、その意識が変容していく過程、というか変わるスピードの印象が、あまり経験した事のない感触として、心に残るのだ。ぱっと見てすぐに面白い訳ではないが、しばらく時間をかけて観ていると、そこでの出来事と、無関係である筈の自分とが、意外と、良い感じで打ち溶け合っていくのをかすかに感じるのである。その時点ではまだ、その新鮮さだけで、全然それを良いとも悪いとも思っていないのだが。でも、後半にくると既に、起こっている些細な出来事に、一々強く反応している自分がいる事は確かである。しかし、その変容の感触それ自体を、良い事であるとか、得難い体験だとか、特別な事であるとか、これまでの既存の言い方を使って言い切ってしまう事が、やや、はばかられるような感じもある。それを観たときの感触を「愉悦」と言うならば、たしかに愉悦的でもあるだろう。その気になれば、そう受け取らせてもらえもするような作品である。であるがしかし、そういうベタな感情の領域で作用しないでしょう、という感じの佇まいでもある。全てが既視感にあふれたものの集積でありながら、それはまだ、あまり人が立ち入ったことが無い領域の出来事のようであり、だからそれを良いとも悪いとも断定できず、判断材料にも乏しく、でもとりあえず何かが感じられるのだったら、もしよかったらその感触を記憶して持ち帰ったらどうでしょうか?とでも言われたかのような、素っ気無いが開けっ広げで風通しの良い、しかしやはり、何の特別なことでもなく、何の変哲もない感じなのである。


…実は、正直言うと、会場を出たときはさほどでもなかったのに、ここまで書いてきて、はじめて「もしかしたら確かにすごく面白かったのかもしれない」という気持ちになってきた。それはそもそも書き始める前は「なぜ僕があえてそれを書く?」のか、という事でもあったのだけど、でもあえて書いてみて言葉にあてはめていったら、確かにそう思える、と、事後的に思い起こされる。だから、それはやっぱり「良い事」ですね、とか、そういうわかりやすい話をしたい訳では全然なくて、作品に出会い、作品に触れるというのは、別に良い事でもなければ悪い事でもなく、幸せな事でも不幸な事でもなく、そういうところから離れた場所での出来事だという事で、それは実に不思議なことだ。