わざわざ「自分探し」しなくても今そこにある私


まだ学生の頃、はじめて榎倉康二の「予兆-海・肉体」とか「予兆-床・手」というタイトルの写真作品観たとき、ある種の軽い反発心を覚えた事を覚えている。なんだ、この素朴・実践・原理主義みたいな作品は??と思って戸惑った。その「予兆-海・肉体」という写真作品の中では、作家本人とおぼしき人物が、海辺の砂浜で、丁度波打ち際に体を横たえて、寝そべった自分の体のラインと波打ち際のラインを重ね合わせようとするかのようにしている姿が写っているのだ。「予兆-床・手」も同様で、床すれすれの位置に置かれたカメラの上から腕がすっと伸びていて、その掌は床と密着する手前で止められていて、その手と床との僅かな隙間の空間を覗くような視点で撮影されていて、要するにやはり何の変哲もない男性の腕がそのまま写っているのだ。…それらの作品にあらわれている「境界線」らしき何らかの予感というかイメージらしきものの、とても独自な立ち上がり方は如何にも「榎倉的」な感触を湛えつつ何となく感じられる気がするし、それはわかるのだけど、でも当時は反発心の方が強かった。何しろそこには、作家自身の身体がそのまま表出しているのだ。そのときの思いを大げさに言葉にすると、なんという無神経な態度だろう!と思ったのだ。自分の身体というものに対して、こんな無自覚・無頓着のまま素材にして良いのか?と。自分の身体にそれほど自信あるのか?そういう事をして許されるのは限られたごく一部の人だというのが「世界のお約束」の筈ではなかったか?と…これ意味わからない?(笑)


今思い出して考えると、木材やモルタルの延長として身体なら身体をそのままに提示するという事がそんなに簡単に行われては困る!という風に思ったという事だろうか?(でも僕はそれと同時期に、石原友明の作品における身体表出はとても素晴らしいと思っていたのだから、…このあたりすごく微妙な内省的若者の気持ちなのです。まあ僕は今も基本的に変わってませんけど!)


たとえば自分の作る作品に自信もなければ可能性も見えてないけど、とにかく自己顕示欲だけは止められないからって言うんで「自分探し」系の表現とかイメージの増殖が何とか…みたいな表現とか、そういうのに邁進したときに、それらは大抵くだらない作品が多いという事になるのだろうけど、でもそのような形式に至るまでに相当屈託というか悩み苦しみがあったのだろうなあというのが感じられる事もある訳で、それが感じられたからといっても作品の良さと何の関係もないけど、でもそれはそれで「そう簡単に自分の身体を肯定できない!それほど楽天的になれない!」という悲観の裏返しであったりもするのだろうから、それと較べると、榎倉康二作品の堂々とした自分の身体の素材っぷり「美術っぷり」は如何にも立派で、「自分探し系」の若者の瞳にはもうやたらと大人っぽい佇まいの作品に映ったのだろうと思い出される…。


というか、それ以降たぶん「自分探し」の美術学生に求められたのは、自分の欲望に嘘をつかず頑張り続ける事と…それと同時に、制度とか歴史と呼ばれる荒涼とした場所にも我慢して触れ続けて、忍耐強くもがいて、この世界と自分との接点を何とか模索する事だったのだろう。っていうかその意味では皆そんなレベルからスタートするんで、それで誰でもそんな風に転がり続けてる内に、いつの間にか自分探しなんか雲散霧消してしまって全然別の諸問題へと行ってしまうのが普通なんだろう…。


そもそも、この私の欲望のありようをどこに落ち着かせるか?という観点で世界と向き合っても、世界は常に、あまりにも過酷で殺風景で冷たい場所でしかないだろう。しかしそうではなく、ちょっと「今ここにいるこの私」をカッコに括っておいて、善良で愚直なキャラとして自己演出しつつ、目の前で一体何が求められているか?何が必要とされているのか?に耳を傾け、同意を求められたらその場ではうんうんと力強く頷いておいて、なおもあたりの様子をうかがいつつやや注意深く探ってみると、世界は場合によっては様相を一変させ、今まで巨大で複雑で不気味なものに見えていた筈のものが、何のことはない手垢にまみれたような類型の寄せ集めでできている事があっけなくわかってしまい、契約に基づいてそれの組み合わせをメンテナンスするための一助として自分というリソースを提供してあげればニーズはちゃんと準備されていてお金とか面倒な諸手続なんかもどうにかなってしまう。要するに君がそのセクションの「担当者」になるのだ。社会参加とはとどのつまりそれ以上でも以下でもない。でもそこまで行けば一応は社会にコミットしてる証明証が出るから、そうなったらしばらくの間だけは「面倒な事」を考えなくても生きていけるよ。とりあえずそれもらっておくと後でラクかもよ…などとしたり顔で語ったりもするようになるのだ。っていうか話がずれた。


…ところで現在開催中の、川俣正[通路]では、サバイバルイン東京・ラボと称して、東京都心周辺でのホームレスの住処をリサーチすると共に、被験者が実際に路上に体を横たえて、そのときの印象も記録する、というプロジェクトを行っているのだ。ここでもやはり「身体」が「寝そべっている」のである。その寝そべったときの感想がレポートされている。


この、ホームレスの住居についてリサーチして見てみよう、ホームレスにインタビューしてみよう、試しにホームレスと同じ体験をしてみましょうという、おそらく確信犯的なのであろう強烈な「悪気のなさ」には、ちょっと一瞬引いてしまうところもある。あらかじめ云っておくと、美術とかのプロジェクトが、ホームレスと呼ばれる人々の状況とか原因とかについて、社会的とか何とか的なあるもっともらしさでアプローチされてない事がけしからんとか、そういう事を云いたい訳では全然ない。そうではないのだが、しかしニュートラルにそれらを感受する事にもある種の抵抗があって、ここではおそらく、なんだか妙に無邪気に「寝そべった身体」が素朴に「何か感じる」事が可能だという事への強い確信があって、とても素直な肯定の力というのがあまりにも眩しいというか、あまりにも屈託がなさ過ぎて、うわぁなんかすげーなぁ、と思ってしまうところもある。


いやたとえば「自分探し系」の人とかで、ちょっとひねくれた人なら「そんな事馬鹿馬鹿しくてやってられるか!」とか思うのではないか?うそ!それはないだろ!?…と。「うーん、寝てみたら確かに今まで感じたことのない新たな感触を感じられた」みたいな、そんな素朴な発見というか、単純な自己肯定というか、下向いて引きこもってる自分が抱えている、自分を慰撫したりもすれば傷付けもするような、そういう悪循環ナルシシズムとは根本的に違う、もっと明るくて明快な、どこまでも高く豊かに上っていく無意識下ナルシシズムの眩しさに、おいそーじゃねーだろとイラつく人もいるのではないか?(ちなみに僕がそれを観てイラついた、という訳じゃない。言い訳してる気はなくて、僕は自分で意外なくらい「自然でニュートラル」な気分で観賞してしまった、その事自体の妙に後味の悪い驚きがあった。昔の僕でもそう思ったかな?と思ったのがこれを書いたきっかけ。)


つまらない事を書いてると思うけど、そういう手つきというか、結局そういうのも観る人に届くのだと思う。美術作品が厄介なのは、それはあくまでも装置なので、作家はエンジニアのように、それの機能が正常稼働する事だけに集中すれば良いのだろうけど、それと同時に、作品というのはどうしても、機能を伴った装置である以前に、行為それ自体としても現前してしまうので、それは避けがたく目の前の人物のしぐさや表情とかと同等でもあるという事で、そんな状態のままで、観た感動とか、感じた快感のただなかにいるとき、そこには常に何か、大きな欺瞞があるようにも思えるのだ。何かを見て見ぬふりしてるから感動できるのではないか?と、どうしても疑いの余地を消せない感じがあって、でも、そこをまるで無視してしまう「強さ」に惹かれもするという、そういうアンビバレンツな私なのであった。