地面

昨日の上野での花見客混雑のすさまじさは大変なものだったけれども、今日もきっと大変だろうと想像されるような、まさに春の陽気で、家から駅前まで買い物するのに少し遠回りして公園の様子をうかがうと、こちらもやはりたくさんの花見客たちで溢れかえっていた。こちらはちょうど一週間前に、花冷えの言葉がふさわしい気温下においてガタガタ震えながら花見を敢行したのだが、完全に一週間読み間違えたということになる。

それにしても、先週思ったけど、花見でシートの上に直接腰を下ろした状態というのは思いのほか疲れるというか、けして居心地よくその場に収まっていられるものではなくて、地面というのは当然ながら起伏や隆起に覆われているので、そのガタガタとした場に腰を落ち着けようとしてもかなり不安定というか、地面は身体を預けてもそうやすやすと快適さを提供してくれるものではない。油断して上半身のバランスを崩さないように、腰周りに軽く力を保持している感じさえある。

屋外ということ、地面のすぐ上に直接座っているということ、靴を脱いでいること、それらの要素が集合すると、人は容易にそれまでの自分を律していたはずの感覚を見失う。屋外でありながら、家のような態度で、しかし快適ではないとき、無意識的にホームレスを体験していると思う。ホームレスである状態すなわちこの外と内の判然としない状態。尻の感触に快適さのない状態。今ここがこの自分を微塵も受け入れてない、しかし強引に締め出すこともない、ひたすら居心地の悪いままが延々引き延ばされた状態。

花見になぜ人が押し掛けるのか。酒が飲みたいから、騒ぎたいから、そういうものでもあるまい。おそらく人がごくたまに地面に直接腰を下ろしたいのだ。外気を受けつつ、その場に座りたいのだ。家や関係を失いたいのだ。

昨日藝大美術館で観た池大雅の連作で、見過ごすほどのはかなさで、数ミリ程度、険しい崖の舳先に小さく座禅を組んでいる人物が描かれていた。仙人あるいは高僧のような存在だろうか。

あの広大で殺伐とした、人間などまるで考慮しない厳然とした自然風景内に、あれだけ小さく人が胡坐をかいているのは、ちょっと恐ろしい景色だ。あれはほとんど、死んでいることに近いというか、地面に直接身体をふれれば、いろいろ浮世において忘れていたことを思い出すような、なかなか恐ろしいものがあるように思うのだ。

なぜ皆が、この微妙に齟齬を含んだ居心地を好むのだろうか。誰もが皆、今ここに唐突に仕切られた場を無理矢理自らの場とする、それを試みる。お前が今座っているその感触こそがホームレスの尻が感じているものだ。だのになぜ、何を探して、皆が大挙してあの場に座るのか、そんなにしてまで。