Green Velvet "FLASH" Remix


いい加減、だらだらしすぎだ。でもそれで良かった。二日間よくだらだらした。この二日間、音楽を聴いてる事だけは、サボらずにやった。なるべくずっと聴いた。家の近くのリサイクルショップで100円で売ってたGreen Velvet "FLASH"Remixが掘り出し物的に良かった。というか、猛烈な下らなさに救われるようなおもいがした。凄まじいまでの愚かなハウスだ。なにを考えているのか、もう完全に手の施しようのない行き着いた感が良かった。…それにしても今日はものすごい天気の良さだった。いや、これが天気の「良さ」と言えるのかどうか。全身から、こまかい木の芽がふき出てくるのではないか、とおもわれるほどの、生暖かい大気に全身を包まれながら、花粉で濁った空間を切り裂いて歩いた。公園では、自分以外の人間が全員、じかに地面に座ったり寝そべったりしてくつろいでいた。一人か二人は、虫の息のヤツもいた。とにかく、この陽気で、桜ももはやうす汚く、緑色がところどころ混ざり始めており、生温い空気の弛緩に身をやつしはじめ、人々は皆今この瞬間の快楽に耽り、けだるいムードの中で最後の一本を回し飲みしているのだった。さすがに僕も今日は、これが今シーズン最後の天国かもしれないな、とはおもった。実は数日前も酷く暖かい日があったので、おそらくその日が、今シーズン最後の天国日だろうと予想したのだが、それは外れた事になる。あるいは、もしかするとこの先も数日かそこら、こういう陽気が続いてしまう可能性もなくはないのだろうか。だとしたらそれはちょっと僕の過去の実績からははじき出せないような事態であり、諸々の想像を超えているが。


コートの袖が擦り切れてしまって、それを修理屋に直してもらうために今日は出かけたのだ。今回僕は、店を厳選した。確実で信頼性の高い仕事をしてくれる職人のいる店はどれなのか、それを勘をたよりに確定するつもりだった。料金表と店構えから、この店しかないとおもって、入り口のドアを開けて中に入った。コートを差し出して、直るかどうか相談した。どうでしょう。可能ですか?出てきた初老の女性は「ここまでほつれているから1cmじゃきかないわよ。1.5cmはいかなきゃだめですけどいいですか?」僕は肯いた。肯くしかできなかたった。苦い後悔がこみ上げてきたがもはや手遅れだ。「どうしても縫い代も必要なのよ。よろしいですか?はい。かしこまりました。じゃあ二週間後ね。」取り返しのつかない事をしてしまったのかもそれないという絶望感。でももしかしたら、完璧に直るかもしれないという一縷の望み。それらが混ざり合って不安と高揚感が混ざり合って、もう仕方がないからこのまま酒を飲もうとおもって、でも日曜の午後三時前後にのめる店はあまりなかった。どの店も皆休みか、午後五時からの営業みたいだった。


今、再生されている曲に、次の曲をかぶせるとき、タイミング良くボタンを押せば良いだけの話なのだ。単純な仕事だ。それを押して綺麗にテンポを被せれば、あとは適当にフェーダを押し下げれば良いだけだ。でもそれができない。僕はリズム感がとても悪いのだ。なさけないというか、みっともない。小学校の体育で、皆の前で、教師に強制されて、誰にでもできる簡単な身体運動をやらされて、それができなくて無様な姿態をさらけ出し、周囲の嘲笑でもなく哀れみでもない視線を浴びているときの気分を思い出す。運動神経とはまず第一に、集団の中でそれを人並みに発揮するためにあるもので、それは通行許可証のようなものだ。だから、それの披露に失敗するというのは、おずおずと差し出した申請が受理されないという事で、生まれてはじめて経験する社会的挫折だ。そして、楽器の演奏も、ようするに体育の授業なのだ結局のところ。僕はほんとうにリズム感が悪くて、ギターで普通にカッティングしてリズムをキープする事がかなり苦手です。というかたぶん、ひたすら同じBPMでテーブルをコツコツ打ち鳴らし続ける事さえ、自信がない。あれは、リズム感覚というのは、実に不思議なもので、それが優れているというのは、要するに鋭敏な反射能力というか、動物のようなしなやかさと柔軟さとか、そういうのをイメージしがちだけど、僕はそれだけじゃないとおもいますね。リズム感とか、運動神経というのは、少なくとも肉体の底辺でそれを下支えする基礎部分に関しては、端的に無機的機械的能力の力であって、どれだけ正確無比に同じ事を反復できるか?という話であるという事に尽きるとおもうのだがどうか。だからそういう能力のない自分の方が、それができるその他大勢よりも、よっぽど人間的というか、弱者たる自分の方がより人間なのだ、とおもった事が多々あるのだがどうか。というか、ある意味機械的反復こそが、もっとも人間的なのだとも言えるだろうが。なぜならそれは意志なのだから。意志だけが、反復を可能にするのだ。だから満足に反復できない人間は人間として不完全なのだ。


でも人間として不完全でもあんまり関係ないし、そんなのはどうでもいいのだ。というか、今再生されている曲に、次の曲をかぶせる、という考え方自体が、微妙なのだ。それは間違いなのだ。次の曲を上書きする、という訳ではないのだ。そういう考え方は、暴力だ。とてもがさつで無神経なものだ。そうではないのだよ。リズムははじめからあるのだ。この世界に最初からそなわっているものだ。それにそっと、自分の方を寄り添わせるのだ。音楽の演奏というのは要するに、そういう事だよ。だから、次の曲をかぶせるのではなく、あらかじめその曲を、そこに置いとけばいいのだ。自分がやれること、できることは、それしかないのだ、という事をまず理解しよう。曲は単に置いておくだけ。あとは結果すら気にしなくて良い。それだけやって、あとは家に帰ってしまっても構わないだろう。


何度でもいうけど、貴方が音楽を演奏するのではないのだし、貴方がリズムを刻むのではない。音楽もリズムも、既にそこにあるのだ。人間が、それらを作り出すことができるなんて、おこがましいとはおもわんかね。だから貴方は、あらかじめそれを置いて帰りなさい。あとは音楽と音楽が、勝手に解釈してくれるだろう。すぐれた芸術は、例外なくみな、そんな風に音楽と音楽が勝手に手を組んで、かってに出来上がっているものなのですよ。作品の価値はみな、例外なく、作者たる貴方がいつその場を立ち去っているかによって、きまってくるんですよ!