「フィクサー」を観る/「眼と太陽」を読む


妻が観ようというから映画「フィクサー」をMOVIX亀有にて。ジョージ・クルーニーがかっこいい映画で、ジョージ・クルーニーのどアップばかり見つめているような映画である。そのカッコいい生き様というか、男が一人で仕事をして生活してギャンブルとかにうつつを抜かしながらも公私共に色々と大なり小なり問題が山積みで夜も昼も携帯がピーピー鳴り響いて、やれやれという感じだけれどもそのつど判断を迫られて対処を迫られるような、色々とそのつど、それなりの岐路に立たされもする中で、自分の経験とか記憶とかカンとかで選択して、とにかく自分なりにベストは尽くして、いいか悪いかわかんないけどそのまま今日も明日も生きる…(でも男はやっぱりメルセデス!)…みたいなのを映画にするときのその手つきというのも、現代にそういう映画をまともに作ろうとするならそれなりに複雑で手が込んだものにならざるを得ず、特に冒頭から前半にかけてはそういう感じが強く香るのでそれなりに面白いというか、気も持たせる感じでいく。中盤以降「あぁこういうお話の映画なのね」と思ってからは、まあまあ面白かった。


でも先日、磯崎憲一郎「眼と太陽」という小説を読んだのだがたとえば「かっこよさ」というものだけで考えても「フィクサー」よりも「眼と太陽」の方が全然上ではないかと思った。…などという言葉を思いついたので書いてみたけど、さっき「眼と太陽」をパラパラと読み返してたのだが、まあ「かっこよさ」だけでここに語るのもあまりにも強引な話で、そんなつまらない話をしても意味がないとは思うのだけどもう書いてしまった…。でもこの小説は「肝心の子供」の次の作品と思って読むと、その意外な新鮮さがまずすごくカッコよくて、二作目というものが周囲を意にも介さず何事も無いかのように静かに滑り出す感じのカッコよさっていうのが十全に行使されてるなあという感じである。週末これを読んだ感触だけが、日曜の深夜のこの時間になっても色濃く残ってるくらいで、その印象を今、自分で納得できるように上手く書く事はちょっと難しいのだが、まあでもとりあえず今書くことができるのは、少なくとも「フィクサー」よりも「眼と太陽」の方が全然かっこいいという事くらいの言葉でしかないところが僕の限界で、僕は小説ってあまり読んだ経験が少ないので、この小説がどれほど変わっていて、新しくて、どれほどのものなのか?みたいな事を理解できる力がないのだが。


ミシガン州デトロイトの冬。行ったことないけどデトロイト・冬・クラブ…といわれるだけでたち込めるある種の雰囲気というのがあって、ざらつく大気の感触と冷気。寂れまくった郊外と埃っぽい密室のフロアをかすかに蠢動させるサウンドとかの、それらのかもし出すもやのかかったような、煙いような空間から、明るい緑色のノースリーヴのワンピースに薄い底のサンダル姿で、ブロンドを肩より少し上あたりでざっくりと荒々しくカットした髪型で、立派な肩幅をもつ、やたらと眼の大きい、射抜くようなまなざしのト女性、トーリの姿が浮かび上がってくる。そのオープニングだけでとりあえずすごくいい。


あるエピソードが語られる。それでその次に、別のエピソードが語られる。それらは互いにそっぽを向き合っていて何かに奉仕している訳でもない。でもそれらのエピソードが現実のようなあっけなさで次から次へとガンガン連続していくことで、何かが強く動き、エピソードとはまったく何のかかわりも無い別の位相にある「ものがたり」が刺激を受けてぐいぐいと直進していくような感じがあるのかもしれない。今回の話においては、凍てつく寒さと埃っぽさと外国のよそよそしさと、自分の熟年的な肉体へ向けた醒めた眼差しであるとか、そこへのかすかな満足感と老いの予感とか剥き出しの欲望であるとか相手の弱みを自分がリカヴァーしようとするときの反射的な判断力とか、それらすべてが紋切り型でしょ?と疑われたときの、そうじゃないんだ、でもそうかもね、というようなだるいあきらめの予感とか、何か中年の男性特有な、何かそそるような体臭が香る印象を、今のところは感じていて、その感じさせ方にある種の強い魅力があると思っている。あと、それを受ける遠藤さんの未知な魅力は、上の世代がもつ「はいはい」というこっちを見下したような視線(でも決して軽蔑的なものではないような)の感じが漂う。長い自分(の恋愛)語りもいいけど主人公の言葉をうけて「だっていまではやつらはそこまで貧しいわけでもない」と手短に返すセリフ一発が後の恋愛話に拮抗するくらいすばらしいと思った。そういう色々な感触の出方が、ジョージ・クルーニーよりも全然クールだなあという意味。あとはやはりアメリカという土地での話だというのも、すごく強烈に香る。事故のシーンにせよ日本食の店のシーンにせよ、すごい香る。で、前作以上に映画っぽい想像力をかきたてるように思う。