希望のかなた


角川シネマ有楽町カウリスマキ希望のかなた」を観る。肉親と死別し故郷を失い難民としてフィンランドに流れ着いたシリア人が難民申請の結果を待つまでの間と、妻と離婚した男が私財を売り賭博で資金を作りレストラン経営で生活を立て直そうとするまでの間が並行して描かれるまでは、かなり手堅く間違いのないような話の進め方で、その二人が出会って、難民の子がレストランで働き始めてからは、ほとんどたがが外れたかのように何もかもが楽しいドタバタ感に満ち溢れて、しかし終盤でぐっと冷却が効くというか、後味がしっかりと調整されるあたり、ものすごく老獪、老舗の職人技みたいな、よくできた映画であった。とはいえ、さすがにそう言って済ますにはあまりにも重いテーマに感じられる。この映画の感想をどのように書くべきなのか、かなり迷う。


この映画に出てくる悪い人は、あまりにも悪い人過ぎるし、いい人はどこまでもいい人なのだが、でもそれが実は現実なのではないかという予感に苛まれるというか、現実は良いも悪いもなくて、グレーな状態だという方がむしろ、嘘なんじゃないかという気にもなってくる。主人公のシリア人はこの物語の始まる前から無数の暴力を心身に受け止めてきた存在であり、劇中でもそうであり、最後などほとんどその苦痛を受ける身である自分に納得しているかのようにすら見える、ほとんど神的崇高さすら感じるほどだが、その彼の立場をひとまず救うのは施設で知り合ったイラク難民の友達であり、偶然出会ったレストラン店主であり、ネオナチの襲撃から救ってくれた酒場の客たちであり、彼とその下の従業員たちのほとんど無条件な慈悲であり、それらがその後の彼を生かすのだが、それはご都合主義ではなくて、それらがなければ、彼はもういなかった。彼の妹は、店主とつながりのある冗談みたいにいいヤツな航海士の助力もあり主人公の彼と再会できるのだが、その妹も彼の地ではアフガニスタンの心優しい夫婦に救われたのだと言っていた。すべてが、あまりにも出来すぎた話なのだが、結局のところ、そのときに最高のタイミングで、そのできすぎた話が存在しなければ、あの人もこの人も、この世にいなかったという事例はいくらでもあり、その意味で出来過ぎた話こそ、真面目に受け止めて真摯に考えるべき話なのではないかという、この映画を観て考えさせられるのは、そういう感じのこととも言えるのかもしれない。


あと、この映画は、いい人と、かなり悪い人と、音楽を演奏する人とが出てくる。あと付け足せば警察とか制度内で働いている人達もいるが、なにしろ、そういう人達の中で、音楽を演奏する人達のことを、この映画はことのほか特別扱いしている。どちらかというと神様扱いに近い。というか、音楽の撮り方、録り方が、本気過ぎるというか、良すぎる。こういうブルースロック的なやつ、ふだんあまり良いと思わないけど、この映画の中でだけは、ほとんど宝石のごとく鳴り響いていて、これはもう良いも悪いもなくて、そういう音楽の、そういうことという感じだ。これが好きなら、もうそのまま、この映画のことを好きだろう。


ところで、僕のフィンランドという国にまつわるイメージは今まで観てきたカウリスマキの映画からの受けた影響が大きいようにも思うのだが、実際そんなことはなくて今まで観たカウリスマキ作品と言ったら「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」と「浮き雲」だけ、かもしれない気もする。「過去のない男」は観たような気もするのだが、すっかり忘れてしまった。他にも観ている可能性もあるが、おぼえてないから観てないも同然だ。しかし、フィンランドという国のイメージというかフィンランド人のイメージはその頼りない記憶の上でしっかりと出来上がってしまっている。というか、あるシーンの断片というか、流れる時間の感触だけをこま切れでおぼえていて、そのイメージだけなのだが、皆、無口で無表情で、一見とっつきにくいが実は人情味があって…みたいな感じで、それだとあまりにもコテコテで分かりやすいが、F1ドライバーミカ・ハッキネンとその奥さんとか、キミ・ライコネンとか、テレビカメラに映る現実のスーパーアスリートのフィンランド人でも、やはり「カウリスマキ的」な雰囲気をたたえてはいる、ような気がするので、それはたしかにある程度フィンランド的国民性というか共通する性格ではあるのだろう。