小林信彦の連作短編小説「袋小路の休日」より「路面電車」を読む。

ここで描写される景色は、すべて七〇年代のものだ。池袋の高層ビルを見る場面があるので、七〇年代後半かあるいはもう八〇年に差し掛かっているのかもしれない。この時点ですでに主人公は目の前の景色を、すでに変わり果てた、見る影もない、殺風景なものに感じている。窓の外を見ながら、うしなわれたかつての景色と今のそれとを二重写しにしている。そして今さら、娘と妻を連れて、ゴールデンウィークならではの特別体験のようにして、都内を走る路面電車に乗ることの自虐的アイロニーを心のどこかでかすかに楽しんでもいるのかもしれない。そしてそのような行為が、七〇年代時点ですでにアイロニカルだったということを、今さらながらこれを読むことで思い知る。

二〇年代の地震と、四〇年代の戦争と、六〇年代のオリンピック、東京の景色は、それらの「災い」によって、完膚なきまでに変容した。自分のような七〇年代に生まれた人間は、理屈からいけばそれ以前の変容を知ることはできない。

我々のような年代の人間が、景色の変容を語ること自体、滑稽なことであるかもしれない、というか、誰かが景色の変容を思うとき、はるか昔からすでに基準となる原風景はなく、この小説の中において、すでに七〇年代の時点で、路面電車から風景を見わたして景色を憂うことの不可能さであり無意味さということでもある。

きっと視覚的なイメージよりも、移動感覚、所要時間、距離感覚の、記憶とのズレこそが、場の変貌を強く感じさせるのだろう。主人公は、路面電車で大塚や王子の辺りまで来て、ここはどこだか検討もつかない…といった感覚におちいる。何もかもが、よそよそしくてぶっきらぼうな、身の危険に対して無防備な意識のままではおれないような、そこは常によそ者たちの集まりの場であり、かつての親しみを求める場ではない。