感覚

ゼロ年代などという言葉があった気がするし、一〇年代という言葉もあったのかもしれないし、二〇年代もあるのかないのか知らないけど、今は二〇年代であるとは思っているけど、ただし二〇二二年だという認識が、すぐに呼び出される状態で常にスタンバイ出来ているわけではないようで、二〇年代であるけれども、ほっとけばいつまでも二〇年のままだと思っているから、九五年は二五年前だと考えてしまうのだが、二五ではなくて、二七年前である。些細だけど、けっこう違う。いや、大した違いではないし、どうせあっという間に、三〇年前や四〇年前になる。それでもかまわないというか、そんなことを考えても仕方ない、そんな細かい、分刻みの考え方そのものの止めようのなさ、それは視力の低下に似ていて、年々、カンマいくつで視力が低下することの結果と、目のまえのものと遠くのものがそれぞれ視界から遠のいていくことの関連は、連携しているようでそうでもない。値の一つ二つが示すことのできる差異の幅が、すでにこちらの必要とする感覚からズレてきている。既製の感覚が、いよいよ我々から、離れていこうとしているのだなと、今後少しずつ、世界すべてが我々から距離をおきはじめるのだなという感じがする。数、その確固たるはずのもの、その動かしようもないはずの概念を、受け取るこちらのスペックが変わっていく、チューニングの変わった受信機のアンテナを向け直して、あらためて最新情報の受信をこころみようとはする、それが来たるべき今後の時間なのだと思って、一応殊勝な態度を装って、それはする。それをあたらしい冒険のはじまりであるかのように、かりそめにでも感じていられるか、ことさら大げさに受け止めて相変わらず喜んでいられるか、そこだ。