「小説をめぐって三十八」保坂和志


「新潮」7月号の表題の作品を昨日から今日にかけて読む。朝、電車の中で読了して、最後のところでほとんど危うく泣きそうになった。。とりとめもなくどこまでも読んで、そして涙にくれたくなる。


色々な事を考えたのだが、とりあえず今、書ける事としては、この文章を読むという経験はやはり、作家とか芸術を為す人というのの、その内側に抱えているある孤独さというもののすさまじさの一端を垣間見る、そしてそれに圧倒される経験なのかもしれないという事だ。。これは保坂和志という書き手がすごいとか、ニーチェがすごいとか、石を積み上げて城をつくったシュバルがすごいとか、そういう事でもあるが、そういう事を超えた、何か得たいの知れぬ、何かを作りあげようとする人がもつ共通した薄気味悪さ、闇雲なちからのうごめきの異様さでもあるだろう。で、その得たいの知れぬうごめきの根底に、身を切られるような深くて厳しい、生きていること自体を揺さぶられるような強烈な「喪失」の「悲しみ」とか「怒り」みたいなのが横たわっているのだという事、それが、そのあまりにも強い喪われた悲しみが、ほとんど不条理そのものというか、今こここにいる自分自身であるかのように、激しい現実として「無限回くりかえされる」中で、少しでもそれに対して対処したい、全身の力をこめて毅然とふるまいたい、また同じように悲しみがふりそそぐのだけど、しかし二度と同じ悲しみに出会わないために最善を尽くす事は放棄されない。そこを「どうせ無意味だから」と先取りせず、何度でも試す。喪われた者のために、その供養とか祈りであるかのように、何度でも何度でも試す…そういう努力がその場で全力で試されているのだという事の、激しくもせつない、どうしようもなさに深く打ちのめされてしまうのだ。


喪失の悲しみだけが、その孤独さ(もうここには居ない存在との対話)だけが、作品を成立させるのだ。そしておそらく、政治も科学も経済もみな、そういう悲しみの孤独さだけが、基底にあるのかもしれない。たとえば「僕はもう、この戦争のために死のう、このまま死ぬ事の、その運命を受け入れよう。」という、ある誰か独りの考えがあったとして、それもまた、その人が抱える喪失の悲しみだけが、自分にそれを許すのだと思う。なんか、なぜか、かつてはるか昔、そういう風に思ったであろうたくさんの人々のことを思いうかべてしまったのだが…しかし人間とはなんとも可哀想な存在なのだなあと思う。元々、可哀想に出来ているのだ。でもだからたぶん、その可哀想な存在だという突き放されたイメージをもって、人間というものをそういう存在と感じることが幸せなのか、ずーっと感じないことが幸せなのか、そこが実に微妙なのだと思うが、でもそのように感じる、というか、私たちは結局、ひとりひとりがかなり可哀想な存在でしかないよね、とか、そういう事を想像する人が、ひとりでも多く増えれば良いと思う。