ライデン瓶の中


「可愛い」とは行き場もないまま制御不可能なまま一方的に送信される慈愛の思いみたいなものだろうか。犬や猫を可愛いと思うのは何故か?犬や猫は、人間がどれだけ愛しても、同じように愛情を返してくれる訳ではない。というか、犬や猫は、「私が愛されているのと同等の愛の表現を彼らにお返ししよう」みたいな計算をすることができない。あるいは見え見えの浅はかで愚かな計算めいた仕草をあらわせる程度の「技量」しかもたない。だから、人間がどれほど強く犬や猫を愛して、どれだけ強く彼らの肢体を抱きしめたとしても、犬や猫は大抵の場合(とくに満腹時)、ただ愛くるしい姿のまま、ぐったりと力をゆるめて視界に入る景色を眺めているだけなのだ。その現実それ自体は、ある意味、泣きたくなるような深い絶望の場ともいえるし、しかし同時に、どこまでも深い無償の慈愛に満ちた場でもある。


私は愛したのに、相手から愛されなかった、という記憶が報われることはないし、見返りを得られることもないし、賭金も支払われないのだが、しかし相手もまた、いつかどこかで、私のいるこの時空とは別の場で、別の誰かから、愛されなかった、という現実を知る事ができたとき、そこには何か、人間のもっとも不思議な力が発動する可能性があるのだ。溜飲が下がった、とか、体験の共有ができた、とか、そういう下らない話ではなく、私の喪失と、あの人の心に生じたであろう喪失が、哀しい事にまったく無関係なのだけど、でもそういう「関係」などという事がどうでも良くなるくらい、私とあの人の「現実」が、どちらも確固として存在した、この世界に私の現実が確かにあり、その後で、時間も空間も隔てたところで、あの人にもあの人の現実というものがあったという、それがどちらも、たしかに存在したのだ、という事を確信できる、というところで、何かが報われる。