大島弓子「夢虫・未草」について考えるためのエスキース


「赤頭巾」という童話があって、赤頭巾ちゃんという可愛い女の子が居たのだけれどオオカミに食べられてしまいました。というだけのお話である事を評して坂口安吾が「ここには文学のふるさとがあるのだ」と言ってたように記憶している。


赤頭巾ちゃんがオオカミに食べられてしまった、という物語のどこに、「文学のふるさと」があるのか?それを上手く説明するのはむずかしい。そんな行間に滲むものとか重宝して有り難がってんの古臭くない?勿体ぶってないで、とっととチャート式にして何度でも利用可能な汎用的な持ち運びしやすい形式にしちゃいなよ、ねえ、やっちゃいなよユー!とか云う人もいるのだろうとは思うけど、そういう試みじゃない方向で、ちょっとずれた観点で考えてみると、赤頭巾ちゃんがオオカミに食べられてしまった、という物語を記述できるのは作家しかいないのだ、と言ってみる事も可能だろう。


おそらくこの世界があってそこに赤頭巾ちゃんとオオカミもちゃんと実在していた。…で、そこはもう誰も知らないような、誰のまなざしも届かないような、おそらく一番偉い神様の視線さえ届いてないような、そういう本当の孤独な、怖ろしいようなある場所において(その場所とは、今この現実、という事だけど)、かつて、赤頭巾ちゃんという女の子が、オオカミに食べられてしまった、という「現実」を、伝えることができるのは作家しかいないのだ。というか、かつてそういう事が起きたのだ、という「現実」を伝える事。それこそが「文学のふるさと」っぽいのだと思う。


先週だったか、大島弓子の「夢虫・未草」という作品を読んで、もう前後不覚になるほど激しくもっていかれてしまい、ようやく落ち着きを取り戻した今になって、何とかこの物語について何か書きたいのだけど、やはり上手くいかない。でもかろうじて思い出したのが前述の安吾の言葉で、今この世には存在しないけど、たしかに存在したはずの赤ずきんちゃんの事が思い出されて、そのあたりが「夢虫・羊草」という作品にすがりつくための何かのきっかけにでもならないだろうか?と思ったのだ。


ここでは大島弓子大島弓子らしいコンセプトというか、世界みたいなものは極めて分かりやすくあらわれているのだけれど、そんな事とはまるで違うとてつもない凄みが、この作品にはある。これを読むと、とどのつまり作家というのは、構想とかコンセプトとか思惑とか想定とかそういう事で駆動する生き物ではないんだろうな、という事がよくわかる。むしろそんなものを平然と泥靴の足をかけて踏み越えて、別の何かに手を伸ばし、飽きては捨てるような幼稚な乱暴さであるとか、まったく何でもないような、物語にも世界にもコンセプトにもまったく貢献しないようなほんの些細な瞬間に全霊を注いでいるかのような冴えまくった描写を織り交ぜたりするとか、そういうどうしようもなく無意味で無報酬で滑稽なまでに採算性の低い行為を積み重ねるのが、真の作家なのだろう。