観たことについて何か書こうとして


銀座のかねこ・あーと ギャラリーで石塚 ツナヒロ 展「− plant ⇔ planet −」を観る。その後、川口のmasuii R.D.R gallery で「組立」永瀬恭一×古谷利裕展を観る。感想はまた後日書くつもり


観たことについて、何か書こうとして、実際色々書いてみるのだが、どうも上手くいかない、と感じる事はよくあることだ。


自分の感じたことや思ったことに関して、何か書いてみようと思って、それで実際書いてみて、ひとまず書かれたシロモノの成果の質はともあれ、どうにか何かの結実として出来上がって、ひとまず冷静になって一旦読み返したりして、ちょっと時間をあけてみたりして、それでとにかくそれを数時間後か数日後かに、ひとまずこれでいいやと納得できたとして、だったら、その納得とは、一体どういうことだろうか?


それは要するに、あのとき目撃したあれらの作品群とは、脳内で乱暴に要約すれば、ああいう「体」を為していた。僕が観たのは要するに「ああいう感じ」だ。とりあえずそういう事でOKとしよう!


…それで、それを僕は確かにこの身体で、この目で観たのだし、そのときの自分の感覚は、気分は、体調は…それは要するに、これもまた脳内で乱暴に要約すれば、そういう「体」を為していた。ああいうコンディションで観たのだ。だからそれもまた、ずそういう事でOKとしよう!


で、観たものと観た私との交差があって、そのときのひとつのレポートして、こういう内容になるのだとすれば、それはまあ、もしかすると「あり」かもなあ、と一瞬でも思えれば、とりあえず言語化・文章化という行為・自分の罪に対して、自分で「恩赦」を出すことができる。逆にそれが上手くいかないと、いつまでたっても自分を、というか、その自分の書いたらしい目の前の文章を、自分で許せなくて、いつまでも逡巡する事になる。


いや「恩赦」ではなくて、自分に自分で「上告棄却」を出す、ってことだろう。もう自分の書いたこれは、この状態で、このありのままを受け入れます、という事だ。現状の判決に従います、という事に近い。