境界の外の境界の外


僕の作品を観てくれませんか?と人に言うのは、とても憂鬱な事だ。もしそれを言わずにすます事ができたら誰だって言わずにすますだろう。作品を観てくれませんか?と人に言うのはとても恥ずかしい。本音としては、別に無理して観てくれなくていいです、とでも言った方が良いような気持ちである。おそらく、モノをつくってる誰もがそう考えているのではないかと思うが。


そもそも作品を作っているとき、それがやがて「観てくれませんか?」と人にお願いするであろう当のしなものだとは、まったく思ってないというのがある。それなりに時間をかけて作り上げてきて、数え切れないほど何度も何度も判断して修正して再構築して、それでまた浮かれたり落ち込んだりしてきたものではあるのだが、でもそれはどう考えても決して「観てくれませんか?」と人にお願いするために作られたわけでは全然ないのだ。だから、それを使って、「僕の作品を観てくれませんか?」と言うのは、異様なまでの違和感をおぼえずにはいられない。っていうか、言いながら笑ってしまいそうだ。


僕はあと2ヶ月もすれば38歳になるのですが、38にもなってこんな馬鹿な事を書く人間も少なかろう。中2病という言葉があるが、今どき中学二年生の方がよっぽどクレバーでそつなくて自意識とかも上手くコントロールしているのではなかろうか。そうまさに、これは端的に自意識の問題に過ぎないのかもしれなくて、要するに恥ずかしい思いをしたくない、人から軽く見られたくない、嘲笑されたくない、低い評価をくだされたくない、みたいな怯えの気分に過ぎないのかもしれない。だとしたらそっちの方が恥ずかしい。ちゃんと覚悟を決めて既成の枠組みの中に自分を投げ入れるべきでそれが大人というものである。


しかしそういう自意識の葛藤だけでは割り切れない何かを感じているのも確かだ。結局何度でも何度でも、そういう風な悩みは悩み続けるよりほかないのではないか?という予感もある。というか、そういう悩みから「解放」されてしまう方法も、もしかしたらあるのかもしれない。それはたとえば、発表とか全くせず、只作り続けるだけとか、ウェブで発表するだけとか、既存の場とは無縁のまったく美術とは無関係で無償な場を使うとか、そういう事だろう。自分がコントロールできる範囲内だけで、お金もそれほどは使わずに、時間効率も良い感じで、細々とやる、みたいな。…でも、言うまでもなく、それも出来ない、という気持ちもある。やはりなんだかんだ言っても、うんざりしながらも、今まで知っている、あの「場」に戻る事でしかないのだ。それはたぶん、あきらめ、とか、開き直り、とかではなく、そういうのをあらためて受け入れ、そこに自分を投げ入れる事を、覚悟を決めた、と言うことなんじゃないかと思うからだ。


しかし、あーしょうもない下らない文章だなーと思うが、しばらくはこのモードに留まる予定。つまり、僕の作品を観てくれませんか?と人に言わないといけない事のうんざりするような感覚に何日も留まる、と言うこと。そのモードで過ごすためにあえて書いてみた。