石塚 ツナヒロ 展「− plant ⇔ planet −」


何らかのきっかけですっとのびていき、たれ下がり、うごめき、さらにまた別の、何らかのきっかけで、今度はくぐもり、ちぢこまり、ぐっと滞って、停滞する、それらのありさま。木や花といったモティーフの様子であると同時に、描画の行為自体でもある一連のあらわれ。


ある部分では、かさついた顔料が微かな粘り気を伴ったメディウムの力で、かろうじて支持体たる木綿の地に貼り付いていて、そのかさつきの感触であるとか、別のある部分では、たっぷりとした黒の堆積が含んでいる保湿性の、そのしっとり感の予感であるとか。


…そういうのが自分のこころの中に不断に織り混ざりつつ、なおも目の前の描かれたありさまを観続ける。その、観た事の記憶の積み重ねをもって、それを「何かが描かれているのを観ている」と感じている。そのゆったりとした全過程を行ったり来たりできる事のよろこびが、単に絵を観ることでおこるのだという事で、あらためて二重に驚いて、そのままいつまでもその喜びから開放されず、絵を観ている間中、それがいつまでも持続する。


筆先に充分に含まれていると思われた筈の水分が、実際は思いのほか足らなくて、中途半端な量の顔料がカサついた感触とともに毛羽立つ木綿の表面を空しくこすって、線とも色彩ともいえぬ痕跡としてこびりつく。かすれたり、こすれたり、描くという事はそのような、思いもよらぬ細かいアクシデントの連続で、でもそれらの堆積がすなわち描く事である。


あるいは、すでに充分な量の手数がのって、ほとんどこの世界に実在するのと同等な質量すら伴っているかのような、生々しいある部分に対して、全力で力を込めてそれまでの堆積を剥離させようと試みるとすれば、…削り落としたり、消しゴムで消したり、そんなときも、それは「描かれた」事実を「描かれなかった」事にするのではなく、描かれた上に消した行為を重ね書きする、という事である。乾いた筆記具で擦り付けられて、擦られて剥がされて、掻き消され、内出血のようにぼやっと帯状の、イメージの幽霊があらわれる。絵では、消し去る行為すら、やはり描く事である。


かねこ・あーと ギャラリーで観た石塚 ツナヒロ 展「− plant ⇔ planet −」を観ながらそのように考えた。とても安定した、ある上品なイメージの提示が、作者のたしかな肯定に裏打ちされつつ提示されていて、すっかり安心したかのような、揺るぎがなく会場にたたずんでいる「好ましさ」の連鎖という感じに思えた。


植物のような、木々のような、衣類のような…なにか、わかるようなわからぬような、かたち。…並んだ作品群はすべてパネルに張られた木綿を支持体として、温かみを含んだやさしい乳白色の生地の色合いと、黒い顔料からなる。ほとんどが、黒いのだが、二点か三点だけ、青い絵がある。とくに理由があるわけでもなく、幾つかの絵は青いというとき、それらはまるで、絵自体が、青いという事の喜びを湛えているかのように感じられる。