青い床の室内が描かれた壁紙

DIC川村記念美術館の常設展示室で、ロイ・リキテンスタイン「青い床の室内が描かれた壁紙」(1992年)。この絵を、かなり長く観ていた。

ソファーや電気スタンドやクッションや観葉植物や縞模様のカーペットやドット柄の壁に掛かった絵のある室内風景である。

奥の壁は一面の鏡で、その鏡に映り込んでいる左右反転した室内が、疑似的な空間を鏡面の向こう側へ広げている。

すべてはごく単純な色面と線によって構成されているので、細部の表情はなく、遠さと近さや、実物と鏡面イメージとに差異の描き分けはない。

鏡によって疑似的な奥行きが与えられているので、手前から奥まではかなりの距離があるように思えるが、それは鏡に映っているからそう見えるだけで、実際は鏡面までの空間しかないこともわかる。

それは絵画だから、奥行もなければ鏡面に映ったイメージでもなく、そもそも我々の存在する三次元空間ではなくて平面であることもわかる。

これが絵画であることはもっとも自明な事実であるはずだが、絵画を観るときはまずいったんそのことを忘れる。いわばフィクションを信じるための手続きを経る。

壁一面の鏡には、それが鏡であることを示すかのような、複数の斜線が描き付けられている。この斜線は、とても記号的である。このように斜線が引かれた壁を鏡だと見なす感覚は、自分がイラストやマンガから学んだものだろう。もしこの斜線がなければ、この絵の壁の向こうの左右反転した空間は鏡に映っているという印象を得るのに、少しばかりの努力がいるだろうか。

しかしどうであれ、手前と奥には反転した同物体が描かれている。この絵は鏡によって疑似的に与えられた奥行を覗き込むような視点から描かれているので、それらがかたちづくるシンメトリーを、斜めから見ている状態だ。それがシンメトリーを構成していることは、見ていればいつかは気づけるはずだ。それにしても、どうも実像と虚像が、シンメトリーと言えるほどには、配置位置の正確さを感じさせないのだ。ところどころおかしいような、ちゃんとした透視図法が効いてない気持ち悪さを感じさせるのだ。

だからと言って、だからそれは鏡像ではなくて実在の空間である、と言えるわけでもない。単に下手な、上手くいってない鏡像イメージという感じでもある。

そもそも、この単純なカーペットの縞々模様は、一応反転像にようでもあるけど、クッションの縞模様は反転していない。壁の絵も鏡像は左右反転しているけど、正確な反転とは言えない。

そこに正確さが無いのは、それが絵画だからである。絵画は、細部はどうであれ、一瞬のイメージでそれを鏡像だと感じさせてくれるものではなかったか。

それはそうだけど、そういうことではない。最初からそんなことを期待しているわけではない。だったら何を求めていたのか、何を見たがっていたのか、そこが、わからなくなっているのだ。

頭の中で想像された、絵画を観て求めるもののイメージ、それはひとまず何かによって区切られた経験であるはず。

でも、これは経験か?むしろひたすらズレて出会い損ねる未経験の連続みたいなことではないか。

手応えがない。つまり、違いが見えない。手前と奥であることはわかる。それが実像と虚像のイメージであることも、それが一枚の平面に単純に描き付けられたドット模様や縞模様に過ぎないこともすべてわかる。にもかかわらず、経験が収束しない。

違いが見いだせない、その理由が、奥行きがあるようで無いから、あるいは鏡のようだけど鏡らしくないから、あるいはそれが一枚の絵に過ぎないから、そのどれによってなのかがわからなくなる。

最初の約束が履行されないのだ。絵画を観るときはそれがいったん絵画であることを忘れるという手続きによって得た安定が保証されないのだ。

鏡に映った何かを、じっと見つめていた経験なら、誰にでもあるだろう。この絵を観るのは、その経験に近いようでありながら、そうではない。「そうではない」という感覚が、行き場を失うような状態におちいる。鏡に映ってないのだ。鏡は描かれてないのだ。ならば鏡はないのだ。しかし実像ではないのだ。なぜなら手前と奥に差異が無いからだ。ということはこれらすべてが実像ではないのだ。でも、それは当然のことじゃないか。

そのような堂々巡りにハマりながら、この絵を、かなり長く観ていた。