赤の他人の瓜二つ


十月に入ってから仕事が猛烈に忙しくなって、朝からあくせく働き、夕方になって一息ついて、さてこれから夜までもうしばらく続ける前のちょっと息抜きとして、僕は散歩みたいにふらふら歩いてビルの階下まで下りてロビーに併設されたコンビニまで行って、棚にあるチョコレートを買い、オフィスに戻るまでのあいだ、買った商品の包装紙を破ってチョコレートを一つか二つ、口の中に放り込んで、それを食べながらエントランスを抜けロビーを過ぎてエレベータホールからオフィスにまで歩いて戻るというのを毎日繰り返した。疲労感につつまれた全身にチョコレートは沁みこむかのような味わいをもって溶けていった。要するに十月からほぼ毎日欠かさず夕方になるとチョコレートを買って食べていたわけだ。


なので、十二月になって発売された群像に掲載された磯崎憲一郎の新作を読んでいてまず驚いたのはいきなりチョコレートの恐ろしいまでの甘美な味わいが描かれていたことで、この出し抜けなあらわれには驚いた。それを読んだ直後に試しにチョコレートを食べてみたら、むしろその味わいの方が作り物のようにすら感じられ、読んだ直後の驚きを凌駕することはなかった。一体なぜ「そのこと」が描かれているのか?実に不思議な思いに包まれた。もちろんそれは世間一般における単なる偶然だろうが、しかし肝心なのは、読んでいていきなりそこに、自分の舌の上で激しく溶解するチョコレートがあらわれたという事で、それは偶然と言って片付けてしまう訳にはいかない何かがある。小説というのはおそらく、そういう現象を生成させるものこそをそう呼ぶのだ。本来何の関連もなく、単なる偶然に過ぎないモノとコトを、はっきりとした確信と予感をもって接合させてしまう。個人の事情に平然とコミットしてくる、呪いじみたもの。なぜだかわからないがこちらの現実に怪しく介入してくる気配。セキュリティ対策の最初から外側にあるもの。唐突に感じる悪寒。予兆。つまり脈絡も何もなくいきなり、否定できない何かとして目の前に立ちはだかるものの事を言う。


あるいは、そこにコロンブスが登場する。コロンブスが登場してしまうということは、コロンブスの背後にあるもの全てがその場に登場してくるということなのだ。まずはその事が極めて重要だ。コロンブスが登場する以上、その物語におけるコロンブスはその場でその生をまっとうしなけれなならない。僕はその物語においてコロンブスが登場したときには本当に驚き、これは只ではすまないという事の興奮をおぼえたものだ。


先月読んでいた「どくとるマンボウ航海記」にはマゼランが出てきたのだ。マゼラン率いる船団の目を覆うばかりの惨状を僕は見ていて、しかし彼らよりも歴史を遡ること数十年の地点にコロンブスもいるはずで…それにしても、コロンブスに出会えるとは思いもしなかったので、僕はこれにも驚いたものだ。彼らは帝国主義者の先鋒であり、外交官であり、軍人である。それらすべての雛形である。ルネサンス時代の何処の誰とも知れぬ誰かの夢である。そんな彼らの生が、今ここにまっとうされていなければならない。妻子や友人や仕事相手や同行者や旅先で出会う現地の人間が出てくるのであれば、彼らの人生がまっとうされていなければならない。


しかし彼らは、登場してそこに生きつつ、さらにまた彼ら自身が思い浮かべる物語を彼らの存在において語り始めるのだ。コロンブスコロンブスとして生きている、というよりは、コロンブスにはコロンブスが語ろうとする物語があって、それを語ることでしかコロンブスコロンブス足りえないかのようなのだ。あるいは、大公家の宮廷医にも当然のごとく彼なりの物語があって、おのおのそれらを語るのだ。コロンブスにはコロンブスの生があるはずで、その生をまっとうするはずだと思っているのに、彼らもまた語り出すことで、その生がまっとうされるはずという期待は逸らされて、受け止めるべき何かを遥かな地平に向けたままの、物語の積層がしだいに重なりあうのをみるだけなのだ。


宮廷医には宮廷医の語るに足る生があるはずで、しかし宮廷医もまた語り、消えていくよりほかなく、彼らは皆、誰か女性を、遥か彼方のもう一人の誰かを、恋愛感情とも友愛ともつかぬ淡くはかない不思議な感情をもって記憶から呼び出しつつ、また自分の意識下にそっと保持しておくのだが、コロンブスにとってのイザベル女王であり、宮廷医にとっての誰とも知れぬ婦人が、時間を遡り空間を越えつつ、その時間の中で浮かびあるいは消え、時間の行き来とともに人の枠内における思いと語りだけが際限なく連鎖していき、語るに足る生があるはずだという思いそのものまでを膨大な歴史の時間の砂に埋もれさせてしまい、完全な凪の海の水平線の向こうの出来事としてしかもう跡形も残らないかのようなのだ。


物語そのものの、淡く消え行くということ、「後ろめたさ」とはそもそも何か。この私の手にはあまる、過分な贈り物を受取っているということ。人の死を含み、歴史を含み、膨大な記憶を含んでいるということ。そうでありながら今ここであっけなく消え行くことをはじめからわかっていて、それなのにこれほどまでに濃く強く、今この場にすがりつくかのように味わいと香りを強く主張してくるということ、自分を犠牲して、自分を生贄にして、この私の舌の上で激しく香り放ち沸騰してのたうち唾液にまみれ溶解し消化され跡形もなく消え去るという、チョコレートと呼ばれるこの物質の、その行く末の覚悟を秘めたまま冷凍圧縮された、化石のように凝固した含有物質としてそこにあるということ。物語を受取るということ。


後ろめたさの立ち昇るのは、そんなすべてを口に含んで、それを食べているからだ。(続きはまた後日書く)