「世紀の発見」磯崎憲一郎


今発売中の「文藝(2008冬)」という雑誌に掲載されている小説。連休の最後の日を夕方から夜にかけて読む。これを読んだ事で、今日という日がもう、この小説にすべてささげてしまったような感じだ。今ぱらぱらと適当に読み返してみても、連続する強烈なイメージの連鎖にいちいち魅了される。在来線も走る線路に突如真っ黒い機関車が出現し、しかもその機関車から吐き出される紫色の煙は固体のごとく動かず垂直に伸びているのだという。…自分はどこまでも執拗にそれを見るだろう。しかし、機関車の方は、決して自分の方を見やることはない。圧倒的なイメージが一方的に自分に押し寄せてくるだけで、自分はどうしようもない。だからそれは、お母さんにも話さず、自分の中に仕舞って置くのだ。有無を言わさず、そうせざるを得ない力にしたがって、そうするのだ。剣道の練習をさぼっている後ろめたさを裏側から否定されるかのように、甘いお菓子を若い女性から貰うことも、その後の巨大なコイの姿も、やはり口には出せず、口に出せるほどの明確さをまとう以前のかたちで、こころの中にしまっておくよりほかはない。そのように縛られている。


Aという、もはやここにはいない、今この空間とは異なる場所の、誰ともわからない記憶の一方向へと向かって、自分の人生すべてを、Aに対する、誰かに対する語りかけと位置づけてみるのも面白いかもしれない。そう思うことでAのその後の人生も後になってから思い出されてくるような、漠とした時間がうまれる。しかしそれと同時に、簡単に口には出せず、口に出せるほどの明確さをまとう以前のかたちでしかなく、そのままこころの中にしまっておくよりほかはないという、それはそのように縛られているよりほかはないようなものでもあるのだ。母親に話したいのに、それを許されず、こころの中に仕舞っておくしかないような、有無を言わさぬ力。本当は母親に話したいのに、それを禁じる力。


ナイジェリアのセクションが終了したあと、物語はまさに「後ろめたいほどの幸福感」に包まれていき、読んでいて戸惑うほど、強く感動させられる。この感動は、小説を読んでいるこの僕の現実に強く作用し、揺るがされるような類の感動である。…機関車が、池の巨大なコイが、耳も脚も折りたたんで白い流線型となって疾走する犬のポニーが、それらすべてが、自分の娘という存在によって、あらためて明確な座標を与えられ、そこに新規に位置づけられ、その場にもう一度、ありありと甦る。ああ、この事だったのか、と感じる。自分の子供というのはそういうものなのかもしれないし、記憶はいつか亡くなってしまうのだろうけど、子供は決してそのようにはなくならない。自分の都合や思惑などお構いなしに、どこまでも存在し続けるだろう。子供は今このときも、これからも、確固として存在しているのだ。人間にとって自分の子供こそが、唯一の他者なのかもしれないとさえ感じられる。なんというか、その事は、錯覚かもしれないけど確かにある種の実感として、何か非常によくわかったような気になれる。


そして、だから主人公は今まさに幸福で、幸福であるがゆえに何度も人類の知恵に感謝するのだ。人類の叡智に対する感謝の反復。それは決してたかだか人類百年の軽薄の犠牲となっている石油へではなく自転車への、自転車という文明の利器に対する感謝である。自転車。素晴らしい乗り物。じつはこの体感される速さだけが、乗り物自体がもつ本当の速さなのだ。自転車は人類最高の発明といってよいだろう。…自転車は最高だ。


とはいえ、最後まで漂うかすかな不安感というか、安堵感に限りなく近いのに、なぜかそこに微かな恐怖心さえ抱かせるのが、主人公の母親の存在であるように思われる。自分が持ち上げても持ち上がらない、痩せて小柄であるはずなのに異様に重い身体…。すべては母のたくらみ。という、かすかな予感として感じられてしまうような、妙にリアルな仮定としての記憶の蘇生。母親が、自分に親しく感じられるテレビドラマの主題歌を、スピーカーの前で真剣に聴いている情景の、その細身の肩を包む黒いカーディガンのショックは、小説の読者にとって絶妙な距離感のエピソードで、感情移入の境界線ぎりぎりをたゆたう。最後まで不気味な人間としての母親。(古墳公園、という場所がいったい何なのか?については、まだもう少し考えたい。)