偶然の終わり

小学生のまだ一、二年生の頃か。自分の母親と同級生の母親が立ち話をしていて、母親の傍らにいた自分は、同級生の子をちらっと見てすぐに目を逸らせた。相手の子は母親のスカートの後ろに隠れて、訝し気な表情でこちらの様子をうかがっていた。小学校は同じだけどクラスが違うので、僕と彼は今まで一度も話をしたことがない。そういった子供同士が、初対面で向かい合ってるときの気まずさは相当なものだ。社交性とか場の空気を読む力がまだインストールされてない年齢だから、気まずさや恥ずかしさは何の誤魔化しもきかずに容赦なく襲い掛かってくる、緊張して向かい合ったままの二人が石のように固まっている。犬同士がうーうー唸り合ってるような、動物的な警戒と威嚇の本能が剥き出しになっている。

あの状態から、どのくらいの時間を経て、どのようにして二人は打ち解けるのか。まるである時、いきなり自転車に乗れてしまったように、子供同士はいつの間にか友達になってしまう。いったんそうなると、そうなる前のことがすっかり思い出せなくなる。彼が友達なのは当たり前のことだ。しかし以前のことを思い出せないから当たり前だと思えるだけかもしれない。

彼と僕が友達となり、ひとしきり同じ時間を過ごした。それはたしかにそうだった。しかし中学校が別々になったり、さらに年齢を重ねるにつれて、やがてまた二人はゆっくりと元々の他人であった時間を取り戻す。警戒と緊張で目を逸らし合った当初の場面へと戻っていく。それは自然なことで、それが当たり前で、むしろそうではなかったあのひとときが偶然の産物だったのを冷静に思い返して肯定できるようになる。その後二人が道端でたまたますれ違っても、ちゃんとした他人同士として無言のままでいい、そのようになれる。