木野

村上春樹「女のいない男たち」収録の「木野」を読んだ。これまで読んだ三篇のなかでは、もっとも混沌としていて、行く先を求めて手探りで彷徨うような作品。

夫以外の男とも関係をもっている妻が出てくるのは、この作品である。そして、妻の不貞に対して、糾弾もできず、許容もできず、怒りも悲しみもまるで他人事のようで、ただ呆然としているのは、本作の夫である。

これで、映画「ドライブ・マイ・カー」脚本の元になった三篇をすべて読んだ。それで、あらためて映画「ドライブ・マイ・カー」の脚本について思うこととしては、かえって、よくぞここまで無条件に混ぜ合わせたものだなあという、それはそれで驚きというか、そこまで徹底して脚本にするのは、なかなかすごいことなのではないかと思うところも、ないではなかった。というか、自分が無知なだけで、映画の脚本作りというのは、多かれ少なかれ、そういうものなのだろうか。

結局のところ、そんな目に遭うようにできていたのだ。もともと何の達成もなく、何の生産もない人生だ。誰かを幸福にすることもできず、むろん自分を幸福にすることもできない。だいたい幸福というものがどういうものなのか、木野にはうまく見定められなくなっていた。痛みとか怒りとか、失望とか諦観とか、そういう感覚も今一つ明瞭に知覚できない。かろうじて彼にできるのは、そのように奥行きと重みを失った自分の心が、どこかにふらふらと移ろっていかないように、しっかりと繋ぎとめてく場所をこしらえておくくらいだった。「木野」という路地の奥の小さな酒場が、その具体的な場所になった。そしてそれは---あくまで結果的にはということだが---奇妙に居心地の良い空間となった。

そのままでいると、どこかへ流れ去ってしまうから、それをつなぎとめておけるだけの何かがほしい、それが居心地の良い店であったり、誰かとのセックスであったりする。

居心地の良いお店を知ってるのは、まあ良いとしても、セックスというのは、相手あっての行為ではあるだろう。ふたりがする行為において、自分が思ってることと、相手が思ってることは、往々にして違うものだ。だから、そのズレや違いがモチーフになって、小説が生まれてくる。

そういうことなのだなあ…と思うと、今更だけど、また、なんとなく面白くなくなってくる。これはひたすら、これのくり返しなのでは?という気がしてくる。

そのときの起こったことは、もう忘れかけている。いろんな出来事が、順番通り思い出せない。ばらばらになってしまった索引カードのように。

小説の最後で、主人公は、自分の今の状態をまざまざと見る。それが、この作品のラストになっている。

そう、俺は傷ついている、それもとても深く。木野は自らに向かってそう言った。そして涙を流した。その暗く静かな部屋の中で。

「俺は傷ついている」を言うために、これがこのようにして書かれた、それは、わかる気はする。そう言いたかった、そのように言うのも楽じゃない、それはそれなりの手続きと時間が必要なのだと、これはそういう小説だとは思う。良い悪いではなく、こういうものが、このようにして、小説のかたちをしていることには、ある種の納得は感じた。はい、ありがとうございました…という感じだ。