これほど強い雨は久しぶり


先週の金曜日(24日)は一日中雨だった。非常に強い雨で、朝家を出てから駅に着くまでの間に、靴もズボンも完全に濡れてしまい、その日は一日中足元が冷たく湿った状態で過ごさなければならなかった。で、そのことをここに文章で書こうとしたのだが、上手く書くことができなかったので、その日はあきらめたのだ。


目の前の風景全体が雨で霞んでいる。


白いインクを無数にひいたような縦の線が視界全域を力強く覆ってる。


これほど強い雨脚を久しぶりに見た。地面に音高く水飛沫が落下して飛び散り、所々に水溜まりとそれらを繋ぐいくつもの水流が生じて、その上を叩き付ける水飛沫の無数の波紋と光の乱反射がおりかさなっている。


折り畳み傘は、みるからに小さくて貧弱なのだが、腕を上げて肘を直角に曲げて、自分の頭上に翳すように持って、そのまま意を決して軒下から外界へと突き進むと、重い大気の層を移動する自分が切り裂いてゆくのを感じ、歩行して上体が移動している事を感じながら、冷たく湿った空気を身体の前半分で均等に受けている事を感じながら、どんどん歩く。


靴の中はやすやすと水の進入を許し、あっという間に足全体が水に覆われた事を感じる。一歩を踏むときの感覚が、水を踏みしめる感覚へと侵食されてゆき、濡れた足と靴の内壁とのすき間が常に意識されるような、頼りないものとなる。やがて膝の下やふくらはぎにも重く垂れ下がろうとする水分の冷たさが感じられてくるが、とにかくかまわず歩く。


こんなに強い雨脚は久しぶり。すごい勢いで降り注いでいる。激しい雨音をたててシャワーのように降り注いでいる。細くて勢いのあるまっすぐな線が無数にあって視界を霞ませている。足下は音高く落下した雨粒たちの盛大な跳ね上がりで地上10cmだけが一層白く煙っている程だ。


こんなに強い雨を久々に見た。シャワーのように降り注ぐ雨が、激しく叩き付けるような音と共に地面に地上をうち、跳ね返って四散し、細かい水の飛沫となってあたり一面を漂う。


灰色の半透明の絵の具が強く降り注いでいるかのような、強烈な視界の悪さ。視界すべてに灰色のフィルターがかかっているような


その後、保坂和志の本に引用されていた若林奮の次のような文章を読み、驚いた。以下に引用する。(小説、世界の奏でる音楽 404頁から)


別の時、自動車ではしっていて大雨に出遭った。道路はすぐに水びたしになり、前方をはしっていたバスは、細かい無数の水滴で形を変えた。バスは表面の厚みを増したのだが、又、自分とバスの間は数限りない雨の線でうめつくされた。私は自動車の持つ機能によって走り続けることはできたが、目で見る感覚と、自分とバスの間に充満する雨の物量による触覚的な感覚には大きなずれを持っていたようであった。私の自動車とバスは、同じ道を同じ方向に走っているのだが、短い降雨の間、ずっと等間隔を保ち続けていた。雨は現実の一つの自然現象であった。自分が眺める人間やバスは、雨によってその物の表面のみ強調することになった。しかも、その表面は厚みを持って、人間やバスの形をあいまいなものにしたのであった。それに加えて自分と人間やバスの間の無数の雨は眺める対象を更に不明確にしながら、自分とのつながりを持たせるものとしてそこにあった。中間的な空間を充たす自然現象である雨が、自分が見るものを人間でもバスでもない量、領域に変えたが、それによって空間をうめつくし触覚的にする。豪雨がもたらした見る事への制約は、強い印象を残したし、それ迄、視覚と触覚のずれを、物に見る時に、物のもつ表面の事とか、物と自分との関係とかいった実感をある程度は解決するものだろうと思われた。


まず、降る雨のことを「雨の線」と言ってしまう単純な強さに驚く。僕はぶざまにも「灰色の半透明の絵の具が強く降り注いでいるかのような」などと書いている。それが驚くほどの不透明さで視界に影響を与えているのだ、という事を言いたいがために、わざわざ絵の具という言葉を使って説明的に説明している。もちろんこんなのは大失敗だ。それにしても「雨の線」とは…。線などと言ったら、いきなり黒をイメージしてしまうのではないか?という恐れを感じてしまうけど、そんなことは全然ない。というか、一つながりで読んだとき、あまりにも完璧に成り立っている事が本当に驚きだ。「バスは表面の厚みを増したのだが、又、自分とバスの間は数限りない雨の線でうめつくされた。」


ここでは、正常な視界(自分と対象)との間に雨という不思議な障壁が生じたことによる現象がおどろくほど細やかに描かれているのだと思う。そしてそれを感受している私の不安定さも素晴らしい。「私は自動車の持つ機能によって走り続けることはできた」かろうじて、それだけは確保されている状態なのだ。機能に依存しただけの、なすすべもない状態…


雨は、すべてを変形させてしまう。それは自然現象なのだと何度も繰り返されるのだが、しかしその自然現象に過ぎない雨に、自分と対象との関係がどこまでも翻弄され、ぎりぎりでつながりを確かめつつ、また宙吊りとなる。。雨が、見るべきものをフェードダウンさせる。雨の実体によって遮蔽されたものの予感だけが浮かび上がる。それによって見えるべきものが「表面」だけになってしまい、かつ、その表面が勝手に、表面としての厚みを持つ。と言うのだ!!胸が高鳴るような瞬間が、言葉によって凍結されている。