今日の土曜日


朝起きて、テレビをつけたらCSで小津の「宗方姉妹」がやっていて、最後まで観てしまった。この映画における田中絹代のほっそりとして凛としたうつくしさには、ほんとうに感動する。山村聡の深いニヒリズムもすごい。あるふたつの世代の違いというか、根本的な考え方の違いというものがあったとして、それは別に、互いが何かを共有する必要などないし、ことさら距離をとる必要もなくて、ただ、そのままでやるよりほかない、という事で、それが姉妹、という関係の中でなんとも表現しようのない感触で納得させられるようなものとしてあらわれている。新しいとは、古くならないことをいうのだ、という考え方の人と、自由に、気ままに、思いのままにやればよいのだ、という考え方の人がいて、前者が田中絹代で、後者が高峰秀子高杉早苗で、おそらくそれぞれはいつまでも、それぞれのままなのだ。しかしそれは当たり前の事なのだ。


その後、上野まで行って、上野の森美術館で「高松宮殿下記念世界文化賞20周年 Art of our time」を観る。あぁいいねえ、と感じたのはラウシェンバーグ、カロ、ライマン、トゥウォンブリなどなど。。よく思うけど、上野の森美術館の階段を上がって二階のフロアに上がるときに作品が見えてくるのは、フィレンツェのアンジェリコの見え方を思い出す。今日はライマンが見えてきた。


その後、芸大で「線の巨匠たち−アムステルダム歴史博物館所蔵 素描・版画展」を観る。ルーベンスの素描2点だけでも見る価値ありの、ほんとうに只ひたすらみるよりほかないような素描。鉛筆にくわわる手の力のそのおそろしく調整された力の配分を、みるというよりは感じる。追体験するのだ。それを観て、そのように描いている時間そのものの追体験である。それが数百年前に紙の上にくわえられた些細な力なのだという事の驚きをもう一度、なんどでも驚く。


その後、銀座のコバヤシ画廊で「野沢二郎展」を観る。茶褐色の油彩の、油分が程好く抜かれたまま、画面におかれて、それが引き伸ばされ、たまたま隣り合う、元々は別の表情をたたえていた別種の質と、画面上ではじめて馴染まされて融合させられ、そのまま薄く薄く引き延ばされて、水分と乾燥との微妙な拮抗線上で、なおも肌理の細かな毛先によって調整されてようやく定着させられたような繊細な絵肌と、その絵肌とわけて考えることが難しいような、ある割合は肌でしかないかのような色彩から成る画面のようで、そのような画面でしか成り立たないものがたしかに実現しているように感じられた。


その後、銀座の南天子画廊で「岡崎乾二郎展painting」を観る。切断や接続ということばのイメージをこころの中でもてあそびながら観ていたのだが、そもそもそれが切断であるとか接続であるとかは、元々の因果を知っているから、そう思うのではないか。別にそれをことさらそのように考える必要はないじゃない。岡崎作品をみると、いつもそういう風な、細かくはいつも違うのだが大体は同じようなこころの葛藤をたたかわせながら作品を観ているような気がする。で、どうなのかがよくわからなくなってしまうのだが、とにかくあの画廊外からでも観ることのできる2点組の小品はすごく良かった、と思った。


その後、青山の青山ブックセンターで「保坂和志×樫村晴香×古谷利裕」トークショーを聞きにいく。樫村晴香の話がものすごく、90分ずっと集中していたので結構疲れたけど、これはほんとうに集中して考えるべき話だという話がたくさん出てきて、とにかくすごく刺激的で、今その話ひとつひとつをここで書くのは僕には難しいのだが、しかしそれらは今後もっとゆっくりと時間をかけて反芻させるか、あるいは一旦記憶の底に沈めてしまってから、いつかまた浮上してくるかもしれないような断片としてあるしかないのだが、まだ今夜の時点ではそれらが熱い熱をもってこころの中の浅い部分にまだいるので、とりあえずその幸福感は、今もまだある。今後の自分がこれから色々と読んだり体験したりしてみたいものが一気にたくさん広がったように思えた。


これを書いてたらこんな時間だというのに突然妻が起きてきて「そういえば今日矢野顕子の新しいの買ったよね」と言ったので、ああそういえばと思い出した。妻の鞄に入っていたCDのパッケージを開封して枕元のプレイヤーにセットしたら一曲目の「When I Die」のピアノが小さく聴こえてくる。