高野文子を読んでいると、今更ながらマンガの表現可能性の豊かさに驚く。この形式は主に、何を伝えることに適しているのだろうかとつくづく思う。「黄色い本」で、主人公の美地子が冒頭バスの中で読書しているときの、窓の外が雨で、雨に濡れる窓ガラスの光が俯いた後頭部や背中に降り注いでいるシーン。姿勢の悪い、猫背の、バスの中の女子高生の、そこから下向き、俯きの姿勢が、そのまま乗り物良いの身体的ぐったりにつながるまで。これだけで「あ!すごい」と思わせるだけの何かがある。


高野文子の描く人間はふにゃふにゃの線で一見まるで適当に描かれているようでいて、階段上るとか、机で頬杖ついているとか、そもそも坐ってる人間を描くのがすごく上手いのだが、つまり腕、足とか、地面に対して突っ張る肉体組織の描写が、驚くほど的確である。というか、そのポイントしか描いていなくて、かえって素晴らしい人間の描写となっている。さらに家に帰ってきた美地子が制服のスカートだけを脱いで、下半身を下着だけ(スリップ?)になったまま、スカートを畳んで畳に四つんばいになってちゃぶ台の上のお菓子に手を伸ばすところを上から見た視点とか、こういうのは本当に大げさでなく、「そんな世界があったことを、今まで知りませんでした!!」としか言いようが無い強烈さである。


そのような、身体動作→その周囲の空間に対する触覚的な肌触りを感じ続ける流れがあって、それと共に登場人物が受け止めている出来事とか時間の経過、みたいなものがある。まず登場人物の身体動作を経由せず話だけを受け取ることが出来ないような仕組みになっているとも言える。