ふたたび仙石原湿原植生復元実験区へ


二年ぶりに僕は、箱根湿生花園内の「仙石原湿原植生復元実験区」にいた。あたりは11月らしく素晴らしい紅葉の風景が展開していたのだが、実験区内領域には、ただひたすら枯れて茶褐色に変色した植物が一様に生い茂っているばかりであった。泥濘の上にスノコが渡されていてその上を歩いて移動する。10分ほどで、実験区を一周して、また元の園内に戻る事ができる。


見た目や印象としては、まったく何の変哲もない、ただ雑草や雑木が生い茂っているだけの湿原の広がりに過ぎない。キレイでもないし壮観でもないが、自分の周囲のある一定の領域に、腰あたりまでの背丈をもつ枯れた植物がびっしりと群生している事から受ける圧迫感はある。自分を中心とした半径30mくらいは、すべてその植物で、すべてが一様に生えそろっていて、風にゆっくりとなびいている。一部が風になぎ倒されていてそこだけが寝癖のついた髪の毛のように流れの向きが違う。遠くの山を覆い隠すように、深い真っ白な霧が中腹のあたりにかかる。寒さが上着を貫いて身体に侵入してくるのを感じながら歩く。


この圧迫感とは、あるボリュームをもったものが、ある一定の面積と高さを占めるようにして空間に満ちているときの、独特の威圧的な感触である。これを「いきなり」出現させる事ができれば、それはきっとすごい事であろう。しかし、そのような妄想は妄想に過ぎない。それは単なる甘い想像でしかないであろう。「いきなり」である事は、どのような事か?それは予想を超えているということである。だとすればそれは常に考えの外側にある筈のものである。手順を踏まえて生成されるものでは無いはずである。


だとすれば、やはり手順自体が悪なのだ。「仙石原湿原植生復元実験区」から受ける印象は僕にそれを告げる。…ちなみにこの実験区域は、冬季になると一時閉鎖され、その期間中に火入れが行われるのだそうだ。一帯を草刈りして、丸坊主になったところを野焼きする。そうすることで、実験区はまた健康な湿原として回復するのだ。僕の甘く狭い妄想とはまるで別の場にあるそれらの手順が、現実にあって「仙石原湿原植生復元実験区」は維持されている。


「何の変哲もない」という事も大変重要なことだ。「何の変哲もない」事が「いきなり」起こって、それに驚く、という事。音楽の良さも結局はそれだ。それが唐突に開始される事でしかない。唐突に溢れ出す何か。。これがすごい。